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国家と舞踏

アシャンティの時代、ガーナ第二の都市、クマセ市の北方1.600キロの地域で、人々がデンケラ王国の支配から脱出しようと団結していた頃、ある青年が遭遇した困難な事態について、ヴェルサイユ宮廷人が書き残している。

この青年はドラマーによる非難を受けてしまった。

ダンスは上手いか?と聞かれ、鼻持ちならない返答をしてしまったこの青年は粗探しをされ、溜飲を下げる結果となってしまった。最初からステップを踏み外してしまい、失笑から爆笑を呼び、王の後輪の座で緊張したのだといい、第二舞踏室で再チャレンジしたものの、次には手を叩いて大笑いされたと記述されていた。その青年は長い間宮廷には姿を見せなくなった。

アシャンティ族にとってドラマーとダンサーは密接に関わっており、族の人間ならば誰でもわかるリズムパターンに、掛け合いを施して、挑戦的なドラマーに相対していくダンサーという構図である。彼らにとって一番の名誉は熟練された、ドラマー、ダンサーであり、フォントム・フロムという太鼓が現在のアフロミュージックまで繋がってくる。(ハイライフというジャズミュージックとの融合もある)

優れた踊り手は、アシャンティ王に選出されるための資質の一つだ。

ドラムに非難されたダンサーは突然演奏を止められる。恐ろしい沈黙の中、すごすごと群衆に逃げ返されるダンサーの後、勇敢な男性、女性がまた、そこに到達してくるのを待つ。

他の宮廷と同様の権力と華やかさがあり、強力なピラミッド社会の中に、為政者、顧問役、家来、取り巻きがいた。スポーツ三昧の贅沢な日々、祭りがあり、衣服や、話し方、作法、立ち振る舞いも全てがその人を表現するものであった。

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時は1692年、ルイ14世の時代、ダンスと言えば「メヌエット」であった。

未来の宮廷人であった、冒頭の青年のような失敗は、決して稀ではなかった。国王ルイは文字通りダンスによって、口うるさいフランス貴族階級を操作するに至った。

本日からは、国家と舞踏の歴史を辿ってみる。

ダンスを政治的手段として用いていたとされる、この歴史に恐る恐る、第一歩めにステップを踏み込んで見ようではないか。

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