恋慕渇仰の心。

法華経には、「恋慕渇仰心」がある。

そもそもこの恋心は、御本尊様への恋慕であり、異性へ対するものではなかった。詳しく言えば、P490に「咸皆懐恋慕(げんかいえれんぼ)而生渇仰心(にしょうかつごうしん)」とある。

仏界への求道心の直道。そのカギは、仏を求める「一心」にある。そして、その「一心」に応えて、「永遠の仏」が姿を現すのだ。

「一心欲見仏(いっしんよけんぶつ)」(同ページ)”仏を求める凡夫の一心”が、そのまま”仏の一心”となる。

池田先生: 「心こそ大切」です。慢心ではなく、心の底から求道心を燃やしきっていかなければ、仏法は分からない。何億年、何百億年に一回しか、めぐり会えない御本尊だと思ったなら、一回一回の勤行がどれほど感激に満ち満ちてくることか。

——恋愛は絶対に無駄ではない。仏道修行には必要な恋慕の心。

私は、ある日、先輩にこう言った。「今まで恋慕渇仰心がわからなかったけど、わかったような気がします」

とかく、仏道修行の妨げになりそうな恋慕は、実は仏になるその過程で求道心に変わる大切な薪だったわけだ。

(異性との)恋愛から目覚めなければ、畜生界。目覚めれば、仏界。天地雲泥の差だ。自分の欲望に酔いしれず、覚醒せよ、自分。

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