ザック・スナイダーが引用したキャンベルの言葉についての考察と解釈
ザック・スナイダーはDCに戻ってくるのか。スナイダーが自身のSNSにジョーゼフ・キャンベルの言葉を引用して投稿した意味について考える。
◆スナイダーカットのネタバレを含みますのでご注意ください◆
前提1:スナイダーカットは事実上の離婚調停だった
ザック・スナイダーとワーナ・ブラザース(以下WBと表記)にとって、スナイダーカットの公開は事実上の離婚調停だったと私は考えている。さすがに私も復縁の可能性がゼロであるとまでは言わないが、限りなく低いだろう。
WBとしては興行収入が伴わないのに予算だけは莫大にかかり、その残虐性からファミリー層へのアピールが難しいスナイダーの作風は離れてしまいたいものだった。これはファンがどう考えるではなくて、WBの経営層が決断したことだ。一度スナイダーを見限ると決めてしまい、そこに莫大な資本も投入してしまったのだから、これはもう後戻りできない。ここで再度スナイダーに迎合すれば即ち経営層の失脚を意味するからだ。賽は投げられた。
しかしさすがにスナイダーの更迭と、ウェドンが残した作品には問題が多くあったこと。そして偶然にもコロナ禍と重なり新作映画が撮影できずVFX制作会社との契約を持て余す状況になりつつあったことに鑑みて、手切れ金としてスナイダーカットの仕上げ用追加予算を計上し(原則としてVFXと音響及び音楽に用途を限る)、離婚を進めていたという所だろう。しかしながら、結果としては、この話し合いは完璧に上手くいったとは言い難い。
スナイダーは自身のスナイダーカットの配信開始当日の3月18日には「自分の思い通りに作れなかった」という事実をメディアに語ってしまった。具体的には彼はグリーンランタンを出したかったのだがWBが断固として拒否した。一時はこれを理由にスナイダーカットの公開を取りやめようかと考えたくらいだったが、この一点でファンに届けられなくなる方が損失が大きいと思い直して、妥協策としてマーシャン・マンハンターにした、とのことである。完璧主義ゆえだと思うが、これはこれで結構過激な話である。笑。
これに対してワーナー・ブラザースのアン・サノフCEOは3月22日にインタビューに応じ、そこでは『スナイダーのトリロジーの完結』であることを強調した。そしてスナイダーの後継作品について直接の言明は避け続けているものの、「スナイダー支持派は有害(toxic)である」というインタビュアーの発言を認めた上で、DC映画の他の監督作品で唯一のスナイダーヴァースと考えて良いデヴィッド・エアー監督の『スーサイド・スクワッド』のディレクターズカット版の公開を明確に否定した。これはもう円満離婚と呼べる状態ではないだろう。
前提2:スナイダーの「WBなんかクソくらえ」発言
他にもWBはスナイダーの原案である企画『アーミー・オブ・ザ・デッド(AOTD)』を、スナイダーもろともNetflixに売却してしまったことからも、スナイダー離れを加速させる動きをしていたことは明白である。なおAOTDはNetflixの中でも特筆すべきスマッシュヒットになったことがNetflix自身から報じられており、前日譚や続編などのフランチャイズ化に向けて動き出しているようだ。
この状態を受けてスナイダーは5月27日、有名なテレビ番組『ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア』でAOTDが特集された時に、自身の作風を茶化したフェイクインタビュー映像(セルフプロデュースしたらしい笑)のなかで「(AOTDがこんなにヒットして思うことは)WBなんてクソくらえだね」と爆弾発言までしてしまっている。
なお原語の「Suck it, Warner Bros.」は直訳すると「ワーナー・ブラザースよ、●●●でもしゃぶってなさい」となる。●●●には「俺のちんこ」とか「テメエのゆび」とか文脈で何とでも解釈できるようになっているが、まあ要するに相手を罵って侮辱する言葉だ。自身で招いた状況なのだから自身で責任を取りなさい(状況を呑みなさい)いうニュアンスもあるらしい。一番マイルドに訳すと「WBはAOTDの成功を指を咥えて見ているしかできない」くらいの意味になる。ただしコルべアの言い方はそんな感じではなく痛烈なのは明らかだ。笑。
このときTwitterでは #SuckItWarnerBrothers がトレンド入りした。インタビュー映像自体が大掛かりなフェイクなので、ただのブラックジョークと済ますこともできるし、怒り心頭で許せない人もいるだろう。かなりきわどくて面白いので英語のみだが一度鑑賞されることをお薦めする。スナイダーが自身の作風(CGの背景、スローモーションなど)をイジり倒している。
前提3:グリーンランタンのゆくえ
そんなおりの6月13日に、あるファンがTwitterで投稿した動画がバズった。スナイダーがもともと構想していたスナイダーカットではグリーンランタンが登場する予定だったのだが、それを自作のCGとアフレコで再現する強者が現れたのだ。
この動画にはグリーンランタンを演じる予定だったウェイン・T・カーもTwitterで称讃を贈るほどだった。
長かったけど、ここまでが前提の説明。
そして翌日についにボスが反応した。
ザックがVEROに意味深長な投稿
6月15日、ザックが自身のVEROに一枚のイメージボードを投稿した。ブルース・ウェインの自宅に緑色に光る人物が空から訪れている。まさに当初予定されていたグリーンランタンの来訪である。このイメージが公開されたのはおそらく初めてだったと思う。
いつもは一行に収まるくらいの短い最低限のコメントしかつけないスナイダーには珍しく、今回は長文が添えられていた。
コメントはアメリカの神話学者であり思想家のジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)の言葉だった。
キャンベルの発言の文脈と意図
引用元はキャンベルの記録映像を使って作られた映画『Sukhavati – A Place of Bliss』(極楽:至福の場所)に出てくる一節である。映画自体はキャンベルの没後10年に作成されたもので、彼が神話学の講義をしている記録映像・音声とともに世界中の自然や都市や遺跡の映像や世界各国の民俗音楽で構成された学術的でありながらスピリチュアルな雰囲気の作品になっている。
ここで語られるのは、文明の黎明期から何千年何万年と人類は太陽や月や自然の観察を通じて得られる一つの共通のコードを用いてそれぞれの神話や文化を創造してきたこと、そしてそれを基にして作られた世界中のあらゆる宗教や信仰や思想のベースは同じであり、この観察に基づいた世界の知覚こそが人間の人間たる所以であるということである。
キャンベルはこれらが経済と政治が発展した社会では忘れ去られた要素である一方で、こうして作られてきた神話がいかに文明の深い部分で影響を与えてきたか、そして現代社会に於いてこれらの神話を主体的に考えることが人間として幸福に生きられることに繋がることを説く。
この70分近くある講義の中でキャンベルは最後にスナイダーが引用した部分に続けてこのように語る。これは本講義のまとめの言葉でもある。
つまり、政治と経済が高度に発展した現代社会では、人間が何千年何万年と繰り返してきた自然を観察して神話的なものを感じる行為を怠り、生命の喜びを感じられないまま、ただ流されて終わる。これは悲しい世界である。だからこそ能動的に神話的なものを感じるように生きていこう。そうすることで主体的に生きる喜びを感じられる…と呼びかけているのだと私は解釈した。
考察の結論:スナイダーの意図
キャンベルの発言内容や文脈を踏まえた上で改めてスナイダーの引用について解釈を行う。
という解釈で間違いないと思われる。
落ちていくことに諦めの念を抱けと言っているのではない。
圧倒的に大きな流れ(=WBがスナイダーの作風を拒否)の中でさえも、人間は本来の生きる意味(=スナイダーカット及びヴァース)を見出せる強さを持っていることを示唆している。
ワーナーとの喧嘩別れやクソくらえ発言があったから多少心配になる向きもあるかもしれないが、グリーンランタンのファンアートに即座に反応した時点でスナイダーはまだ希望を持っている。彼はまだ諦めていない。
了。
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