朝顔

 夜、布団に入って、いつもきまって考えることは、このまま眠って二度と目が覚めなければいい………
 それでも朝になれば目が覚めてしまうので、タロウは、朝から、掃除をしたり、洗濯をしたり、漬物を漬けたり、慣れない家事に没頭した。動き回っている間はいろいろ忘れることが出来た。けれどまた日は傾いてくるのであった。一日の家事の終わりが見えてくると、タロウはまただんだんと心細くなる。そうして、晩飯の仕度をして、西日の引いた縁側近くにちゃぶ台を移し、そこに腰を据えると、もういけない。世の中のありとあらゆる心配事が、自分のだけでなく人様のまで、頭の中を、さっきまで自分が家の中をせっせと動き回っていたのと入れ替わるように、せわしなく動き回りだすのである。
 そんなわけで、食欲のなくなったタロウは晩飯から目をそむけて、狭い庭を見るともなしに見ていた。その時、玄関のチャイムが鳴った。タロウが返事をするよりも早く、玄関の立て付けの悪い戸が、畳を震わすほど乱暴に開けられた。次いで、タロウにはすっかり聞き慣れた地上げ屋のジロウの大きな声が響く。
 「タロウ、居るか」
 ジロウはタロウの返事を待たない。足音がどかどかと廊下を近づいて来る。ふすまは開け放してあった。もちろんジロウのためではない。風を通すためだった。タロウが振り向くと、ちょうどジロウが遠慮なく入って来た。その瞬間、風が止まったようにタロウには感じられた。
 「なんだ、また一人で飯を食っていやがる」ジロウは座ったままのタロウを見おろしながらちゃぶ台を回り込んで、向かいに腰をおろした。それから、食後に飲むつもりでタロウが用意していたお茶を、勝手に湯飲みに注いで一口飲んだ。四十二、三歳の大柄な男で、いつも清潔そうな白いワイシャツを着ている。それが、朝でも昼でも夕方でも、いつ来てもおろしたてのようにきれいで、汗の染みひとつ付いていたためしがなかった。それがタロウには何とはなしに恐ろしかった。
 「おれのことは構うな。腹は減ってない」タロウが黙ってジロウを見ていると、ジロウはこんなことを言った。気の利いた冗談を言ったつもりなのか、得意そうに笑っている。タロウは笑う気になれなくて、ジロウから目をそらした。狭い庭の隣はすでに更地になっている。境にある古い板塀の板が一枚だけ根元近くで折れて庭のほうへ傾いていた。隣の家を取り壊した時に何かのはずみに折ってしまったらしい。菓子折りひとつ持って謝罪に来たのはジロウだった。その時ジロウは、「必要なら塀はいつでも直しますよ」と妙なことを、ごく穏やかな口調で言ったものだった。それからひと月ほどになるが塀が直されることはなく、いつしかジロウが毎日タロウの家に来るようになっていた。その間に、種を蒔いた覚えもないのに朝顔が、板塀の折れた板に蔓をからませていた。それがタロウには、折れた板を直そうとしているようにも、倒そうとしているようにも見えた。見え方は日によって違った。
 「遠慮しないでどんどん食え」ジロウが言った。まだ人を見くだしたように笑っている。隣の家があった頃には、日が沈むとどこよりも早くこの狭い庭に夜が訪れていた。それが今は、まだ明るい空を板塀の向こうに見渡せた。
 「どうした。一人じゃさみしくて食欲も出ないか。ここへ行けば仲間がたくさんいるんだぜ」そう言うとジロウは、ズボンのポケットから例の見慣れたパンフレットを取り出して、腰の後ろに片手をついたまま横柄な態度で、ちゃぶ台の上に放り投げた。ポケットに入っていたためくの字型に折れ曲がったパンフレットは、ちゃぶ台の上をちょっと滑って、タロウの晩飯の、蒸した鶏肉の載った皿に当たった。その時に、よほど当たりどころが良かったのか、風鈴のような高く澄んだ音が鳴った。
 「きれいな音だったな」ジロウはぱっと顔を輝かせた。それから、「もう一度やってみよう」と言って手を伸ばしてパンフレットを、介護付き老人ホームのパンフレットを、取って、もう一度さっきと同じように投げた。パンフレットはちゃぶ台の上に載って、ちょっと滑って、再び鶏肉の皿に当たったが、今度は木を打つような鈍い音が鳴った。
 「おかしいな。さっきはきれいな音だったのに」ジロウはまたパンフレットを取って、投げた。が、また鈍い音が鳴った。「うまく行かないな」ジロウはまたパンフレットを投げた。また失敗した。また投げた。また失敗した。投げる時には最初の時と同じように腰の後ろに片手をついた。ちゃぶ台の上からパンフレットを取る時には前かがみになって手を伸ばした。振り子のように体を前後に動かしながら、何度も投げた。しかし一向にあのきれいな音は鳴らないのである。鈍い音が鳴るか、せいぜいプラスチックじみた軽い音が鳴るばかりだった。それにもかかわらず、失敗を重ねるごとにむしろジロウは笑顔を大きくしていった。
 「投げ方が強すぎる」タロウは急に口を出した。
 「そうか、強すぎるのか。それじゃあ、もう少しそっと投げてみよう」ジロウはパンフレットを投げた。パンフレットはちゃぶ台の上をちょっと滑って、皿の手前で止まった。
 「弱すぎて止まっちゃったよ」ジロウは声をあげて笑った。タロウも釣られて笑っていた。
 ジロウはまたパンフレットを投げた。今度はさっきより手前で止まった。
 「まただめだ」ジロウは手を打って笑った。タロウの笑いも大胆になった。
 ジロウはもう一度投げた。今度はちゃぶ台の端に載っただけで少しも滑らない。ジロウは膝を叩いて笑った。膝を叩くのに合わせて腰が弾んだ。
 「どんどん下手になっているじゃないか」とタロウ。
 「もうだめだ。力の加減がわからなくなった。代わりに投げてくれ」ジロウはパンフレットをタロウに差し出した。
 タロウは腰を上げて、ジロウの隣へ行きパンフレットを受け取った。ジロウは少し横へ移動してタロウのために場所を空けた。タロウはジロウがしていたのと同じように、腰の後ろに片手をついて、パンフレットを持った手を構えた。
 「弱すぎたら届かないぞ。でも強すぎてもだめだぞ」横からジロウが助言する。
 タロウはパンフレットを二度、三度、小さく前後に動かして狙いを定め、投げた。パンフレットはちゃぶ台の端に載りかかったものの、勢いが足りず畳の上に落ちた。
 二人そろって弾かれたように笑った。
 「どんだけ気が小さいんだ!」
 「今のは無し、今のは無し!」
 二人はしばらく笑い続けた。ようやく笑いの波が引いた時には、二人とも肩で息をしていた。
 「もう一回、もう一回」そう言ってタロウはまたパンフレットを構えた。まだ笑いが腹の底でくすぶっている。それが時々、口から出かかる。それをこらえながら投げようとしたものの、手を動かした拍子に、「はへっ」という上ずったような変な声となって出てしまった。それで力が抜けた。パンフレットはちゃぶ台まで届かず、あぐらをかいたタロウの足の上にぽとりと落ちた。
 二人は笑いころげた。タロウは「おなか痛い、おなか痛い」と言いながら腹を抱えてのたうち回った。ジロウは「はへって何だ」と言いながら両手と両足で畳を叩いた。
 タロウは懲りずにパンフレットを構えている。眉間に深く皺を寄せた。
 「思い切って投げろ。せめて皿に当ててくれ」ジロウは低くしかし力強い声で言った。その眉間にも皺が深く刻まれている。真剣勝負の顔つきだった。
 タロウは息を止めた。思い切って投げた。パンフレットは風をとらえた。ちゃぶ台を飛び越えて向こう側に落ちた。二人の笑い声は暮れなずむ空に響き渡った。
 タロウとジロウは畳の上に大の字になって息を切らしている。
 「こんなに笑ったのは久しぶりだ」タロウは言った。
 「おれもだ」ジロウが起き上がった。
 「もう帰るのか」タロウは首だけ持ち上げた。
 「うん」ジロウはパンフレットを拾い上げた。
 「明日もまた来るんだろ?」
 「また明日な」


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