『ひらく美術 地域と人間のつながりを取り戻す』/北川フラムを読む

前回までは、意図的にジャンルを絞って「芝生」に関する本を読んできた。

頭の体操もかねて積読してあった書棚からひょいと取り出してきたこちらの本を読み進めることにした。

本書の感想をひとことで言えば、越後妻有トリエンナーレでの取り組み内容だけでなく、その状況の表現方法(言い回し・言葉遣い)がとても勉強になる本だった。

以下、気になった。文章を抜粋した。

-----ここから、長くなります。-----


3.11東日本大震災の体験を通じて(18頁)

”美術は社会的な共有体験から出発することが多い”

まちづくりに取り組む上で大切なこと(25頁)

”来街者への対応(配慮)。親や子どもが「今日は代官山に行ってくる」と外出したときに「代官山なら安心だ」と思われることがまちづくりの肝のところ”

”最近の再開発を目指すのではなく、面白く、楽しく、快適で、いざというとき守ってもらえる街こそが将来も愛され親しまれる街”

”ニュータウンは、計画的に造られていて、同じ階層の人たちが集まっている。多様で多層な人々のかかわる時間的な積み重ねがないため、微妙な陰影がない”

「表通り」と「裏通り」(26頁)

”裏通りは暗くなるからもっと明かりを強くするために防犯灯をつければいいとなりますが、問題(の本質)は誰かが声をあげたときに他の家から人が飛び出してくるというコミュニティがないこと”

”安全への要求はあるが、そのたsめのコミュニティができていない”

コミュニティのない「孤独な群衆」(28頁)

”都市の人は、意識的にか、無意識的にか田舎を求めている”

”(都市で生活する)多くの人は、自分の五感が開かれていないこと、マニュアル通りに動かなければ便利ではない生活に息苦しさを感じている”

アーティスト、自立する地域づくり(96頁)

”学習、説明、理解のなかで地元民の意識が開かれていく。アーティストは、この場で調達できる材料に知悉しなくてはなりません。”

”人の土地にものを作ろうとすることが私有制を超えていく”

”美術は天からの贈り物のような媒介物になっていく”

現代の価値観について(110頁)

”人と違って褒められる唯一のジャンルが美術と芸能”

現代の価値観とは、”最新の情報を大量に取得し、最短でアクセスすること”

”(この価値観が)建築になると”最新のブランドショップかレストランを1カ所に集めるというエンドレスの再開発が進むことになる。”

それに”情報技術によるネットワークとマスコミの情報操作が加わることになる。”

”私たちはセグルメント(囲い込まれて)され、アベレージ(平均値)で括られ、スタンダード(中心)に集まるようにされている。”

違いやこわさによって、「知りすぎた日常」を超えられる。(131頁)

越後妻有版『真実のリア王』(2003年)から”生活環境の違いは、身体的な特徴となって見た眼にすぐわかります。これは大切なことで、その違いは最初、こわさや知らない言葉となって現れます。こわさは好奇心を揺り動かします。また、知りすぎた日常も越えられます。”

アーティストの選定について(152頁)

”アーティストの選定は、さまざまな角度によって決められる”

”自戒として、現代美術といわれるものの絶え間ない検証と人々に受けのよいアーティストを選べばいいという安易な態度をとらないことと専門的であるよりは大衆的であればいいという傾向に流されないことが大切”

”土地に根差し、独自のスタイルをもって、人に新しい感動を呼び起こすアーティストを選び出し、アーティストにとってもその作業から何かが返ってくるようになることが大切”

鶴見俊輔の『限界芸術』から考える(152頁)

”ちくま学芸文庫の『限界芸術論』/四方田犬彦氏の解説が素晴らしい”

”芸術はおおまかにいって、3つのジャンル(純粋芸術/大衆芸術/限界芸術)に分けられる”

”「純粋芸術」は、狭い意味での芸術であって、専門的な芸術家によってのみ作成され、専門的な享受者のみを対象としている。”


”「大衆芸術」は、専門的な芸術家(プロ)によって作成され、資本の論理が制作過程において大きな決定権をもち、たとえ俗悪という非難を浴びようとも大衆によって広く享受されるもの。”

”「限界芸術」は、非専門的芸術家によって作成され、非専門的享受者によって受けとられるもの”

”私たちは、資本主義が存命するためのフロンティアを失くした時代に生きている”

#ひらかれる美術 #越後妻有トリエンナーレ #北川フラム



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