チレボン銀河鉄道
インドネシア西ジャワ州チレボンで2021年6月29日に逝去した賀集由美子さん、同7月5日に逝去した夫のボントット・コマールさんに寄せて。「こうだったらいいな」という願望を込めた、宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」のオマージュです。「ペン子ちゃん手帳」の表紙に使った、賀集由美子さん作のバティックのブックカバーから着想を得ました。
そこは夜のチレボン駅でした。しかし、真っ白に塗られていたはずの壁は、淡いレモン色に光り、鼠色だったホームは柔らかな若草色をして、壁の色と調和していました。ホームの下には、桔梗色の線路が真っ直ぐに走っています。
「チレボン駅、いつの間に、こんなおしゃれに塗り替えたんだろう。あれ、私はジャカルタへ行くんだったっけ、日本へ帰る予定にしていたっけ。なんで一人でここにいるんだろう。iPadはどこ? あれ、まさか手ぶらで来たの?」
急に不安に襲われた時、どこからか、少ししわがれた、しかし、はっきりした声が聞こえて来ました。「ユミコさん、待って。今、走って行くから。待って」。
なんだかわからないままに、その声を聞いてすっかり安心し、ホームのベンチに座りました。「待って」と言うんだから、待っていればいいんだろう。
日が昇って日が沈み、また日が昇って日が沈み、それが六回、繰り返されました。その間に、駅にはぽつぽつと人が入って来て、ホームに時々滑り込んで来る列車に乗り込んで、チレボン駅を出発して行きました。喧噪はなく、静かでした。いつもと違って静かな駅なのを不思議に思いながら、ただ、じっと待っていました。
六日目の夜遅く。
「ユミコさーん!」と叫ぶ声が聞こえて来ました。声の方を見ると、駅員の制服を着た人がホームの上を軽い足取りで一散に走って来ます。
「バポ!」、心に暖かい光がさーっと差し込みました。
「ユミコさん、待たせてごめんね。一生懸命に走って、ようやく追い付いた」
「バポ、来るの早すぎるよー。もっと長いこと、ここで待っていられたよ」
「いや、早く会いたくて、頑張って走って来た」
「ちょっと、その服装は何なの?」
いつもの面白柄のTシャツではなくて、かちっとした制帽をかぶり、バティックのサルンに上着。手には、列車の出発合図に使う丸い指示板まで握っています。
「いいでしょ、駅員さんになってみた」、いたずらっ子のようにニヤッと笑いました。
するとちょうど、賑やかな歌声と共に列車がホームへ滑り込んで来ました。屋根には人がいっぱいに乗り、先頭の人はギターを抱えて大声でサッカー応援歌をがなり立てています。
「ちょっと、なにー、今でも無賃乗車ってあるの? こんなの久しぶりに見たよ。サッカー観戦にスラバヤへでも行くわけ?」
急に騒がしくなったホームで、どんどん楽しい気分になってきて、周囲の騒音に負けないように大声を張り上げました。バポは列車を指しました。
「これに乗ろう。サッカーファンの人たちと一緒だと、きっと楽しいよ。サッカーの話できるし」
そこで、遠足にでも行くような浮き立った気持ちで、ホームから列車の中へと乗り込みました。バポも続いて、ひょい、と乗り込みました。
「これはエクセクティフ? きれいな車両だね。車内販売はあるのかなぁ」
車両の奥の方へと進み、席を決めようと周りを見渡していた時、ワゴン車を押した車内販売スタッフが向こうの車両から入って来ました。
「チレボン駅、チレボン駅。みなみ十字駅に接続してから、生命樹駅へと向かいます。お入り用の物はございませんか。イブ、こちらをどうぞ」
スタッフは、ワゴンに山積みされた荷物の中から、縦長のつるっとした板状の物を渡しました。
「これは何? iPad?!」
「iPadのような物です。充電の必要はないですし、ずっと使えます。ツイッターも入っているので、ツイートを読むことができますよ。残念ながら、書き込みはできない仕様なんですが」
「えっと、欲しい。おいくら……? BCAからのBank Transferでも大丈夫ですか?」
「欲しいと言う方には、無料でお配りしています」
黒光りしている板のホームボタンを押すと、画面がぱっと明るくなりました。「パスコードを入力してください」というメッセージが出て、無意識に手が動き、いつものパスコードを入力すると、見慣れたiPad画面に変わりました。しかし、中には、見たことのないアプリもいくつか入っていました。
「このサッカーボールのアイコンは何ですか?」
「それで、サッカーの全試合を生で見ることができます。クリックして、カレンダーで日付を選んでから、お好きな試合を探してください。こちらのテレビアプリはケーブルテレビですね。テレビ番組は何でもあります」
「えーっ、すごい!」
「銀河アイコンは、地図アプリです。今いる場所と路線、行き先がわかります」
「食べ物は何かありますか?」
「チレボン駅で仕入れたナシ・レンコがありますよ」
「これってまさか、Mang Sadiの?」
「そうです。Mang Sadiのブンクスです」
「良かったね、バポ! 食べるの久しぶりだよね」
二人はiPadに似た板とナシ・レンコの包みを手に、いそいそと席に落ち着きました。
窓の外はもうすっかり暗くなっていました。列車がゴトン、と動き始めました。
線路はチレボン駅のホームを出ると、二本の飛行機雲のように、空へと真っ直ぐ上って行きます。その線路の上の列車は、飛行機が離陸するよりもしっかりとした安定感で、空へと上がりました。
下には、懐かしいチレボンの街が見えました。二人が出会った街です。ホテル・アシア、二人で建てた家兼工房、その前の細い小径、よく食べに行ったムル・シーフードやマン・サディのナシ・レンコ、あちこちのナシ・ジャンブラン屋。少し離れた場所には、トゥルスミの工房群が見えます。
チレボンの街は、赤い瓦屋根が連なってどこまでも広がり、おもちゃの街のようにかわいらしく、美しく見えました。いつまでも見ていたい風景でした。
しかし、列車はぐんぐんと上がり、街はやがて、闇の中に沈んで見えなくなってしまいました。替わって線路の横にちらちらと現れ始めたのは、群生して咲く青いランの花。それに、ピンクの象、いろんな不思議な生き物、美しい草花。これまでバティック文様で作ったり見たりした物が、闇の中に浮かんでは、次々に通り過ぎて行きました。胸の詰まるような美しい光景でした。
「銀河鉄道のみなみ十字駅の先がどうなってるのか、本には書かれてないけど、『生命樹』駅があったんだね。どんな所なんだろう。楽しみだね」
「ギンガテツドウの本は読んだことないけど、ユミコさんの行きたい所へ付いて行くよ」
「日本は通るかな」
「ちょっと待ってね、銀河アプリを見てみよう。これからみなみ十字駅に接続、それからスピカ、うしかい、おおぐま、こぐまで停車、か。生命樹駅は北極星で接続。北へ向かっているから日本も通りそうだね」
「日本を通る時に、また車内販売があるとうれしいな。お茶とお菓子が食べたい」
「アプリで予約できるかも。車掌さんが通ったら聞いてみるよ」
「どこまでも一緒に行こうね」
「うん、どこまでも一緒に行こう」
銀河の水の中には、水面に映った雲のようなメガムンドゥン(雨雲)が見渡す限り広がっていました。列車はゴトゴトゴトゴト走って行きました。
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