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経営を「期待」の観点から考えた

年始以来のnoteになる。その間、世の中は大いに変わり、ミラティブ社にも様々なことが起こった。七転八倒しながら事業は力強く成長し、昨日はまたリリース記念日を迎えた。月日はいかにも早く、夏は今年も暑い。

しばらくの間、noteの頻度を上げようかな、となんとなく思っている。2020年は、家族との時間、読書の時間、考える時間、がとにかく増えた。
まじめな話から、日々のしょうもないことまで、あとで世界が振り返ることになるであろう2020年について、自分の景色を少し記録しておきたいな、と思った。

人とのコミュニケーション量は、事実として減った。社内は自分が手を動かさなくてもちゃんと回る強い組織になっているから、リーダーは考えを雑にでも発していく・繰り返していくのが良いのだろな、とも考えた。まず年内、毎週書くぞ、という決意のもとやってみようかなと思っている(と、宣言によって自分を縛るのであった)。

初回は少々仰々しく、コロナ下で考えていた経営についての思索を書き残しておく。(次回はもう少し軽いヤツを思念している)

経営と「期待」、その調和について

結構な昔、経営における自分(経営者)の役割を「人に期待しつづける」ことなのではないか、と書いたことがある。

それからも経営をド未熟にもドタバタとやってきて、なるほど経営とは「期待」に関する営みなのか、と、最近思い至った
いうなれば、関連する人々(Stakeholders)の異なる期待の矛盾を止揚・昇華する一連の営みだ。

まず期待をされるだけの「志」が上段・存在意義にある。志には、様々な角度から、期待が集まる。顧客の期待、メンバーのキャリアや自己実現、株主への還元、社会への貢献。異なる期待は、多くの矛盾をはらんでいる。これをある次元で一致させていかなくてはならない。

期待を止揚する一つの手段は「理」である。あなたの期待に応える手段がなぜこうなのか、理を尽くして説明する・取り組む。
もう一つの手段は「情」である。あなたの期待に応えたいのだという想いを、正しく表現できた時、情は引力となる。(同時に、経営者は権限と情報を活用して事物をハックしやすい立場だからこそ、情を悪用してはならない、と常に自戒する。)

この「理」と「情」は、どちらが欠けても長続きしないものだと感じる。理をもって物事をコントロールすることや、情をもって相手を説得すること、どちらかだけでも、続かない。「理」と「情」が矛盾を止揚する手段として良い次元で調和している必要が、経営にはある。

(ただ、自分の場合は「志」「情」がどうも前に出すぎてしまうことでバランスを崩すことも多く、あえて「理」を先に述べている。)
松下幸之助は、これを「理に情を添える」と表現していたそうだ。3月くらいにこの表現を知り、以来意識している。

ある「志」のもと、「理」と「情」を駆使して、顧客・株主・何より自分たち自身、と言った「Stakeholders」の期待を受け止めて、実際の価値として調和して還元する。その一連の動作が、経営になっている。

語源をたどると、経営の「経」は縦糸(緯は横糸)を意味しているそうだ。縦糸は転じて、「すじ道・道理」「物事のおおもと」を示す。「物事のおおもと」を「営む(やりくりする・manageする)」。
何をやりくりするのか。物事のおおもとが「人々の期待」なのだとすると、つまり多種多様な「願い」への解を提示する一連の意思決定行動こそが経営だとも言えそうだ。
経営=management = 人々の期待を、manageする行為

最近はそんなことを思い至った。

できすぎた話で、当社ミッション「わかりあう願いをつなごう」は、経営ともリンクしているのだな、などとも自己認識した。
同時にその難しさと深遠さには戦慄し、結果責任の役職と知るからこそ、最近は経営の先人達への畏敬の念をますます深めている。

経営は深遠だ。
深遠だからこそ、行動以外に現状からの経営的打破がないことを日々思い知らされるのも、また面白い。深遠であり、単純でもある。
今日も様々な期待に向き合って、七転八倒の実践がつづいていく。昨日はまたリリース記念日を迎えた。

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