『平和園に帰ろうよ』と「死」

先日、『平和園に帰ろうよ』が「死」を考えさせられるということについて、私が感じたことをtweetしたので、ここにまとめておきます。

ご近所のお婆ちゃんがまだお婆ちゃんやってるなって思いはにかむ

小さい頃からずっとお婆ちゃんだった人、いるー。その人がまだお婆ちゃんをやっているということは、ずっと健在だということ。しかも、かなり高齢。それに対し「はにかむ」。視線が優しい。


医師が書くカルテの文字が寄り添って相談しているこれからのこと

同じような状況に最近なって(カルテなしで医師との相談でしたが)、これはつまり終末医療に関する相談かもしれないと思いました。違うかもしれないけれど。

「出来上がり」ランプが灯るまで中の液体はまだコーヒーじゃない

「みんな生きたい」の中の一首。
火葬場の待合室だったのですね。なぜって急にそこで実感が湧いたので。夫が飲もうとしたコーヒーがそれで「あ、これドリップ式だ」と夫が言ったのを覚えています。

喪主がボタンを押す瞬間の表情が見たくて前に少し動いた
「みんな生きたい」の中の最後の歌。この連作、ちゃんと読んだら、ちゃんとそういう並びでした。完璧すぎて怖いくらい。
職員の方がボタンを押すときにこの歌が頭に浮かんだのでした。「あ、ボタン」と思って。
能動的な動きで「死」とは対照的な「生」を表しているところにグッときます。

(2022年追記:今年、親戚が亡くなって別の火葬場に足を運びました。そこは、棺桶に入った故人と親族がお別れをした部屋から親族が出たあとに、その部屋の扉が閉まって、扉の前でお別れをして終わりでした。新しいところは、もうボタンさえ目に触れる場所にないのかもしれません。)


他にも直接的な歌はいくつもあるのですが、最近身内を亡くしたばかりの今の私に迫ってきた歌を挙げました。


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