同じモチーフ、違う心情
近江瞬さんの『飛び散れ、水たち』を読んでいたら、小坂井大輔さんの『平和園に帰ろうよ』にも同じような素材の歌があったな、と連想してしまいました。
同じような素材なのに個性が出ているそれぞれの歌が面白かったので、並べてみました。
分かり合えないと知りつつ隙間なく重なる揃いで買った茶碗は
『飛び散れ、水たち』近江瞬
これは、分かり合えないと知りつつも寄り添っていることを詠んでいるのでしょうか。分かり合えないことを、隙間なく重なる揃いの茶碗と比較して悲観しているのでしょうか。どちらにも受け取れる気がしました。
でもなんとなく、悲観しているようには思えませんでした。そして、隙間なく重なる揃いの茶碗は、精神的な一致を示しているような気が私はしました。
お茶碗とお椀がぴたっと重なって外れないのも愛の仕業かい
『平和園に帰ろうよ』小坂井大輔
お茶碗とお椀ということは異質なもの同士なので、異性同士の気がしています。(同性でも愛はあるという話は、ここでは置いておきますね。)先ほどの近江さんの短歌とは状況が違うのですが、つい、連想してしまいました。こちらは肉体的なつながりを感じさせる歌だと私は思いました。
ハーモニカ吸い奏でれば僕の中消えゆくドレミファソラシドレミファ
『飛び散れ、水たち』近江瞬
なんという詩的な表現。よく考えたらそのままを表現していると思うのに、ハッとさせられます。
違う人思い浮かべてした後のドレミファソラシドみたいな嗚咽
『平和園に帰ろうよ』小坂井大輔
ドレミファソラシドみたいな嗚咽…。さきほどの近江さんの歌は音が入っていくのに対し、こちらは音を出す方ですね。
とらえどころがないのに、だからこそ?心に残ってしまう歌です。
どちらの歌も好きです、私は。
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