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哲学メモ4 現前の質的な差異

 久々に哲学メモを投稿する。

 ニュートン以来の光学は「明るさ」と「眩しさ」を同一のものとして扱っている。しかし「明るさ」と「眩しさ」は異なる。これは、「明るい色」が存在するのに対し「眩しい色」が存在しない、ということからも分かる。さて、「明るさ」と「眩しさ」の差は何か。
 私たちはピアノソナタを聴いて「楽しさ」や「悲しさ」を感じる。しかし私たちがピアノソナタによって「数学の解を導き出したときの感覚」に至ることはない。これはなぜか。
 世界のありとあらゆる事象は「私たちに現前するもの」として存在している。世界を「私たちに現前するものの総体」として捉える思想はここから生じる。
 しかし「総体」とは何か。総体を導き出すためにはそれぞれの要素が同一平面に置かれていなくてはならない。さて、世界の事象は同一平面に置かれているのか。
 前述したとおり「明るさ」と「眩しさ」は異なる。これは、「明るさ」と「眩しさ」が現前の質において異なる文法を有していることに由来している。ニュートン以来の光学は「明るさ」と「眩しさ」の間に量的な差異を置いたが、両者はむしろ質的に異なっているのだ。なお、ここで述べられていることが純粋な認識である以上、この「文法」は間主観的な言語の文法とはひとまず異なる。「眩しい色」は言及し得ないのではなく認識し得ないのだ。
 小説が映画化されると小説の読者は解釈の一致・不一致を巡って論争を行う。そこでは小説と映画は異なる形式でありながら同じ内容を受容できるものとして捉えられている。しかし、それは本当か。「小説」が現前するときと「映画」が現前するときの間には質的な文法の差異があるのではないか。
 現前する事象はそれぞれ異なる質を有している。それらは同一平面を持たない。それゆえ、「現前するものの総体」としての世界は(マルクス・ガブリエルが言ったように)存在しない。しかし同時に私たちは現象を翻訳することによって同一平面を仮想している。多くの場合それは画像や言語に対する翻訳として行われる。しかし、たとえ画像であったとしてもそれは「翻訳」である以上「認識されるものによって認識されないものを示すこと」でありシニフィアンとシニフィエの対応した記号である。よって事象の翻訳はすべて言語的な翻訳であると言える。
「Am(和音)」が現前するときの質と「疑問」が現前するときの質と「炎」が現前するときの質はそれぞれ異なっている。それゆえ、「Am」と「疑問」と「炎」を並べて「3個」と数えるような同一平面は存在しない。(おそらくそれらが同時にやってきた場合、私たちはそれを統合された単一の経験として認識するだろう。そのとき三者の区分は消失している。)しかし、「Am・疑問・炎」という三つの単語を並べて書き表すことは出来る。このときそれらの要素から「質的な文法」は拭い取られている。かくして世界は仮想される。

 加筆。
 僕は事象の「質的な文法」を理解しようとすることをTwitterにて「質的拡張」と呼んだ。それから僕が所属するLINEのオープンチャットでは「質的拡張」に関する議論が相次いだ。
 投稿した後に気付いたのだが、上述した思想はいわゆるイデア論に近い。僕は「個々の眩しさ」を離れて「眩しさそのもの」に迫ること(イデア論的観想)を「質的拡張」と呼んでいたのだ。しかし、これは「光そのもの」を観想する従来のイデア論とは似て非なるものである。
 「眩しさそのもの」は「明るさ」とは似ても似つかぬものなのかもしれない。それどころか、「眩しさそのもの」を捉えた先には「暗い眩しさ」さえも可能となる地点があるのかもしれない。これらの探究はまず言語を以てなされる。「暗い眩しさ」という言語が生まれた上で、それが指示する現前の有無が考察されるのだ。究極の現象学は詩において達成される。

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