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寝袋男『屹立』への感想

 寝袋男さんという方がnoteに投稿した『屹立』という短編小説が面白かったので、感想と批評の中間のようなものを書き記したいと思います。

 この作品の中心には「謎」があります。この作品は、「誰が父を殺したのか」という謎を核とするフーダニット(ミステリの一種)としても読むことが出来るのです。僕もはじめはその謎を解くつもりでいました。僕は、寝袋男さんが仕掛けた謎を解こうとして彼の文章に何度も目を通したのです。しかし段々と僕は当初の気概を失っていってしまいました。僕は、謎を解くのではなく、まさに〝その屹立した不安を、ただ愛でる(本文より引用)〟という態度へと帰着してしまったのです。「誰が父を殺したのか」という問いへの答えを用意することが、ついに僕には出来ませんでした。
 しかし、この作品が抱えている謎はそれだけではありません。たとえば僕たち読者には「姉の正体は何者なのか」「なぜこの作品の題名は『屹立』なのか」などといった問いを立てる権利もあるのです。僕の頭脳に「誰が父を殺したのか」という謎を解く能力はありませんでしたが、そういった別の謎を解く能力ならまだ備わっているかもしれません。むしろそういった別の謎を解くことこそが、「誰が父を殺したのか」という最大の謎を解く鍵になるかもしれないのです。
『屹立』の作中で画家の姉は画家に対し「今日は全部を描かなくて良い。このリンゴの中で、描きたい部分を描いてみて。」と助言しました。リンゴの全体を見るのではなく部分を見ることによって画家がリンゴの描写に成功したように、僕もまた作品全体の謎を問うのではなく部分の謎を問うことによって謎の解明に成功しよう、そうした気概のもと僕は今この文章を書き連ねています。

 この作品は謎や不安といった暗い雰囲気をまとっています。しかしそうした雰囲気を剥ぎ取ってみると、この作品には一貫して「画家の成長」が描かれていることが分かります。かつて弱々しかった画家は絵画と出会うことによって徐々に世界の美しさを知り、一度は父殺しを志したものの結局は人の道を踏み外さず、ついには国立美術館での展示という名誉を手にしました。暗い雰囲気を意図的に無視して読むと、『屹立』という作品は画家のサクセスストーリーでしかなくなるのです。

 次に、そのような読み方をすると気付くことがあります。本篇においては対立するキャラクターのように描かれていた「父」と「姉」、この二人は、どちらも「画家を教え導く存在」としてはさほど大差ないのです。父は画家に木剣を握らせ、彼を厳しく指導します。姉は画家に絵筆を握らせ、彼を優しく指導します。アプローチこそ若干違いますが、画家を「鍛錬」するという役割において両者は同等なのです。
 父と姉には他にも類似する点が数多く存在します。父は画家を山に登らせました。姉は画家に山を描かせました。父は画家に血や土の苦味を味わわせました。姉は画家にコーヒーの苦味を味わわせました。「お前は剣に向かないのかもしれないな。」という父の発言も、「父さんを描きなさい。死んだ父さんの絵を。そして、ここから出て行きなさい。」という姉の発言も、画家を暴力ではなく芸術によって自己実現するように促したという意味では何も変わりません。父の行動も、姉の行動も、その目指している方向は全く同じなのです。

 こうした理由から、当初僕は「姉の正体は何者なのか」という問いに対して「女装した父」という仮説を立てました。姉を父のアニマ(ユング心理学用語。男性の深層意識に存在する女性の人格を指す)と捉えると、姉の行動原理はとてもよく理解できるようになるのです。この仮説を採用すると「誰が父を殺したのか」という問いへの答えは「自殺」となります。
 しかし、父と姉が同時に登場する場面がある以上、この仮説は棄却されなければなりません。それでは僕たちは父と姉の類似性をどのように解釈すればよいのでしょうか。この問いに答えるために、ここからは「なぜこの作品の題名は『屹立』なのか」という問いと向かい合っていきます。

 前述したように、『屹立』という小説は一貫して画家のサクセスストーリーを描いています。そしてサクセスストーリーとしてこの小説を読んだ時、『屹立』という題名は何も不自然ではありません。かつて画家は父や姉に依存していましたが、絵画によって自己を「屹立」させるに至ったのです。
 さて。「屹立」という言葉が自己実現のメタファーであるならば、僕は父というキャラクターについて考えを改めなければなりません。

それは、中年の痩せた男が大木に背中を預け、立っている様な絵だった。何故"立っている"ではなく、立っている"様"なのかと言えば、その男が既に死んでいるからだ。

『屹立』本文より

当初、僕は画家のことを自立していない人間として、父のことを自立している人間としてそれぞれ認識していました。しかし父は実のところ自立してなどいませんでした。彼は自分の足で〝立っている様〟な姿の時でも、実は常に〝大木に背中を預け〟ていたのです。
 生前も、死後も、父は常に大木の根幹に近い位置を占拠していました。画家が剣道で父を倒せなかったのも、父が常に透明な大木に背中を預けていたからに他なりません。画家の木剣が大木の根を撃っていればあるいは父を倒すことも出来たのでしょうが、父は画家が大木の根に近づくことをつねづね禁じていました。僕が思うに、おそらく大木の根は父の部屋の中に存在していたのでしょう。そして父はいつも一人きりで根へと下りていき、そこから養分を汲み取って生活していたのです。
 父は大木の根幹に背中を預けていましたが、画家は大木の枝葉に掴まっていることしか許されていませんでした。作中、画家は何度も父によって〝地面に叩きつけられ〟ます。画家の描いたキャンバスすら〝床に叩きつけ、踏みにじ〟られてしまいました。こうした寝袋男さんの描写を読んで、僕は梢から落ちた果実が地面で腐ってぐしゃぐしゃになる様子を連想しました。果実、そう、たとえばリンゴのような……。
 そう、リンゴです。画家の独白の中に〝今まで食べられるだけがリンゴの役割だと思っていた〟という言葉がありますが、リンゴという果実の真の役割は食べられることでもなければ描かれることでもありません。リンゴという果実は、種子を遠くに運んで新たなリンゴの木を生やす、という重大な使命を負っているのです。そして作中の画家もまた、父から同じような使命を負わされています。

「このままでいられると思うか。このままでやっていけると本当に思うのか。お前は”女”で、こいつは”男”なんだ。こんな男を欲する女はいない。戦えない、女もいない、そんな男でどうする。そんな男で、」

『屹立』本文より

物語の展開だけを見ると、父のこの発言は少々唐突に感じられます。しかし、大木と父の関係を踏まえた上で読み返すと、この発言の意図するところはとても明瞭に理解できるようになります。このとき父は大木の意志を代弁していたのです。大木の意志、それはリンゴ=画家に、新たなリンゴの木を生じさせることです。そう、大木とは要するに家のメタファーだったのです。画家をいつも脅かしていた父の男らしさは、父が大木=家に依存していたがゆえのものでしかありません。
 新たなリンゴの木が育つためには、古いリンゴの木が朽ち果てて養分とならなければなりません。そのような意味において、父は古いリンゴの木の一部としての使命を立派に果たしました。彼が田舎の森の奥で朽ち果てたからこそ、画家という新たなリンゴの木は立派に遠い都で育つことが出来たのです。こうして僕はやっと「誰が父を殺したのか」という問いを解くことが出来ました。父は殺されたのではなく、古いリンゴの木のように、〝立っている様な〟姿のまま朽ち果てたのです。

 最後に一つの問いが残されました。「姉の正体は何者なのか」という問いです。父を古いリンゴの木、画家を新たなリンゴの木とそれぞれ対応させる。このように考えた時、姉は一体何と対応するのでしょうか。

 僕は、姉の正体は「リンゴの遺伝情報」である、と考えます。

 遠い都で画家が成功するためには『遺体』という作品が必要でした。そして画家の父の死もまた、『遺体』という作品のために必要だったのです。しかし成功したあとの画家が『遺体』のような作品を描くことはありませんでした。彼は一貫して彼の姉の肖像画ばかりを描き続けたのです。
 古いリンゴの木が朽ちたのも、新たなリンゴの木が育ったのも、すべてはリンゴの遺伝情報=姉の肖像画を拡散するためだったのではないか?……このように解釈すると、案内係の女性が姉をすべての黒幕ではないかと匂わせたのも故なきことではない気がしてきますね。

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