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シン・ウルトラマンを見た

というわけで見た。

パッと見た感想としては「なんか違和感あるな」ってものだった。というのも庵野秀明らしいカット割りなどはたしかに存在しているが、どことなく演出に庵野秀明っぽさを感じなかったことだ。
庵野秀明の作品は色々細かいところがあっても見終わったとき、メタ的な情報も含めて「なんかすごかったな……」みたいな圧倒された語彙力のない感想しか出なかったが、この作品は「なんか演出が」とか「○○は面白かった」的な、細かい感想が最初から出てきた。これはつまり語彙力を保てる程度の感動しかなかったことを示している。

実は映画のエンドロールで気づいたが、これは厳密には庵野秀明作品ではなかった。樋口真嗣氏が監督で庵野秀明は監督ではなく総監修というポジション。演出や企画、脚本に名前はあるものの作品のマクロを決定する人間ではなかったようだ。

©円谷プロダクション・東宝・カラー

とはいえ、庵野秀明のことだからめちゃくちゃ口出しはしていると思うので、一応庵野作品として認知しようと思う。

僕が知るウルトラマンというのは、光の巨人で、どういうわけか襲来する怪獣と戦うM87星雲からやってきた宇宙人で、必殺技がスペシウム光線で、そしてエヴァの元ネタになったということだけだ。
子供の頃、僕が生まれるより前で、親が僕に見せるように適当に買ったウルトラマン総集編的なビデオは家にあったがストーリーについては知らなかった。小学生も3年位になる頃にはすでに特撮という分野に対する興味は失せていた。

そういう人間の視点でこの作品の僕が思ういいところと悪いところをあげようと思う。
当然ながらこのドキュメントはその性質からネタバレ上等になる。
未見の人は注意してほしい。

良かったところ

SFとしてのできの良さ

これはシンでなくても良いのかもしれないが、ストーリーの詳細を知らないままウルトラマンを見て思ったのは、SFとして見たときに面白かった点。
アーサーCクラークの幼年期の終わり以降、この手の人類の認知を遥かに超えた存在と人類自体の存在としての進化というのは多く描かれているSF的なテーマだ。ウルトラマンも究極的にはそこにカテゴライズされる。

光の星、外星人のザラブ、メフィラス、ベータボックス、ベータシステム。これらに踊らされる人類と、外星人の思惑、地球外の生命体同士の繋がり。ただただ驚異になりうる未発展の生命を屠りたいとか、戦力として運用したい、発展途上の生命に対するスタンスのようなものは非常にありふれた内容ではあったが、その描かれ方が良かった。それらは外星人同士の交渉や会話の端々にしか現れず、説明のようなものは出て来ない。

外星人は日本政府と接触するしメフィラスとウルトラマン、ザラブとウルトラマンの交流を見ても、外の宇宙での生命体同士での交流などを見て、彼らの置かれている状況や世界の成り立ち、技術的な話題がこぼれていてそこを拾うだけでも面白い。
なぜ突然禍威獣が現れたかという理屈は説明されないが、彼らの会話から察する事ができたりするのも、ロア好きとしてはたまらなかった。
TV版ウルトラマンと内容は異なるかもしれないが、この内容で展開したら面白くなるんじゃないかと思わせる内容だった。

ウルトラマンの異質さと存在感

ウルトラマンはご存知、人類と同じ形をしている。二足で縦に立ち、自由に使える手があり、頭があり、頭には口と目などの外部からの情報を取り入れる器官がある。戦うときには手を存分に使い、格闘戦のようなことをこなす。
だが、ウルトラマンの動きはどことなく人類とは違う異様さがある。
最もそれを感じたのはウルトラマンが縦にぐるぐる回って、そのエネルギーで相手を蹴り飛ばしたり敵の攻撃を弾いたりするシーンだ。
別のなにかの作品で超常的な能力を持つ人間の戦闘シーンでもあんなのはない。
しかしその演出手法は、キャラクタをただ回すだけで良いので人間が中に入らなくても撮影ができるし、3Dモデルを用いた表現を前提に考えても、モデルを回転させるだけだから表現として効率が良いのはわかる。
実際にそういう演出が過去にあったのかわからないが、そこから派生した演出として見るとしっくり来る。しかしそれが最新の3Dモデリングでそのまま表現されると、どこか滑稽さすらある。

だがそれが良かったように感じる。

というのは、ウルトラマンは外星人、人類とは違う。しかし同じ外的存在の禍威獣よりも遥かに近く感じる。しかし、そういう演出を使うことで明らかに別の存在であることが際立っていた。

その心的な距離感がウルトラマンという存在の微妙さとテーマ性を強化していたように思う。
これがもしかしたら、特撮というジャンルが副作用的にもたらした演出だったのかもしれない。

それに、ビジュアルとしても美しい。

©円谷プロダクション・東宝・カラー

完全に人間なのだが、その人間の肉体感がある銀色のボディが動き回ると、謎の美しさがある。初めてウルトラマンという存在を美しいと思った。このデザインは静止画じゃわからない美しさがあるなと思った。

メフィラスのキャラクターとしての良さ

©円谷プロダクション・東宝・カラー

紳士、丁寧、狡猾。
「郷に入っては郷に従え、私の好きな言葉です」
のようなキャラクター的な特徴を与えられ、人類に対して友好的であることを演出しながら、その目的は人類の生物兵器化だった。
メフィラスは同じ外星人で機械的なコミュニケーションをする神永 = ウルトラマンよりもずっと人間らしいが、その企みは非人間的。人間を道具というか商材というか、そういうものとしてしか捉えてないのだが、非人間的なウルトラマンは人間をそれでも大切にしようとする人間臭さが光る。
加えて雲行きが怪しくなるとき、「私の嫌いな言葉です」「私の苦手な言葉です」のような特徴をうまく利用した演出は実にキャラクタ的だが、だからこそ良かった。
作品中の機能としてもそうだが、無論、山本耕史氏の怪演もある。短い出演時間だが、その怪演によって特徴づけに成功している。

良い印象を持たなかったところ

登場人物が記号的

作品としてはTVドラマ1シーズン分くらい内容を2時間くらいに圧縮した内容になっている。そのあおりを最も受けているのが登場人物たちだろう。
セリフややり取りは多いのだが、そのほとんどが「現在自分たちの置かれている状況の説明」でしかない。人物ごとに葛藤や黒澤明的なクセなどは存在しているが、それぞれがその場でぽっと出て消えていく。
彼らの人物像の掘り下げが足りない。
シン・ゴジラでも自分たちの状況を説明するシーンが目立ったが、それを個別の演技などで表現できていたし、それこそが作品の流れを作っていた。
だがシン・ウルトラマンは登場人物たちは振り回されるだけだ。禍威獣が現れ対応して外星人が現れ対応して次の出来事が起きて……。彼らはただ状況に転がされて終わる。
展開的に、彼らが物語を駆動する時間は限定的で、それも物事を前に押し進めるための道具にしか映らない。結果、彼らはただの物語を見せるためのパーツでしかなくて、そこに存在感はない。
存在感があるのは外星人のウルトラマン、メフィラス、ザラブであり、主要登場人物の禍特対のメンバー含め人類はパーツでしかなかった。
これ自体はSFとしてのできの良さでも書いたが、外星人がこの物語の主役だと捉えると、それは間違ってないフォーカスの仕方にも感じる。つまり人類はこの物語の主役ではないとする解釈だ。だが、そうすると物語の柱に致命的な問題が生じてしまった。

メインテーマの説得力の欠如

©円谷プロダクション・東宝・カラー

ポスターにもある通り、「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」というセリフこそがきっとウルトラマンのテーマだろう。
ウルトラマンは光の星の掟に従う存在だが、自分の命を賭して小さい存在を守るという、彼からすれば理解できない行為をした人間に興味を持ち、やがて信じるようになっていく。その演出を強調するための浅見弘子とのバディ設定だった。
物語上の構造はわかる。テンプレートだけれど十分に美しいプロットだ。だが、その演出は殆どない。浅見弘子が神永 = ウルトラマンを信じていく過程も、逆にウルトラマンが人類を信じようとする過程も、かなり足りていない。印象として、なんか知らんが文句ばっかり言っていた浅見はあっさりとウルトラマンを信じて、なんか知らんがウルトラマンは人類への信頼を深めているようにしか見えない。どうしてそこに至ったかの描かれ方が足りないので、行動原理が「あ、そうなるのね」みたいな、作品のメタ情報を読み取った上での理解しかできない。感情的には全くついていかない。

上にあるように、この物語において人類はただの舞台装置でしかないのは良しとしよう。だが、メインテーマは「より高次元の存在がそれでも人類を信じて託す」というものにあるのであれば、彼が人類を信じる過程をうまく感じられないのは致命的な演出不足だろうと思う。
先程も書いたがメタな作品の構造理解はできる。けれど、それだけだ。テーマに説得力がなく、最後の結論も「ああそうなるのか」以上の何かはなかった。

このテーマを補強するために神の如きウルトラマンが太刀打ちできなかったゼットンに対して人類が科学技術でその倒し方を見つけるというシーンも、結局は実行はウルトラマン一人。ウルトラマンのほうが科学技術力に優れているなら、そもそもその倒し方も彼が思いついてて然るべきだろうとも感じたし、結局自己犠牲法を否定されてもウルトラマンがそれでいいと言えば人類は唯唯諾諾として従うだけ。どうして人類を信じたのか、その演出の補強にもなっていないように感じた。

演出のテンポ

物語の開始は、スターウォーズ的だ。作中の状況や設定を文章や映像だけで説明し、突然登場人物たちがその設定の中で立ち回り始める。
ちなみにこの方法は物語を作る上で真っ先に「やるな」と言われる手法だ。感情的についていけないから離脱要因になってしまう。
そして最後はいきなり始まっていきなり終わるごくごく短い最終決戦からゾフィーとウルトラマンの会話から神永が目覚めて「おかえりなさい」と言われてエンディングテーマだ。

視聴者完全に置いてけぼりである。

作中の戦闘シーンも2体目の禍威獣戦以外はめちゃめちゃにあっさりしている。必殺技バーンと打って終わり。あるいはボコられて終わりだ。戦うこと自体は対して重要じゃない(それまでの過程の方を描きたい)としてももともとはそこの戦闘シーンがエンタメ的に重要なところじゃなかったのか、という感想はどうしても抱いてしまった。

総合的な感想

同じ作者の作品としてシン・ゴジラがあると思うが、シン・ゴジラは多数のキャラがたった人間が物語を進め、ちゃんと信頼を構築して大きな事業を為す話だったのに対し、こちらは演出不足だったと言わざるを得ないと思う。
作品単体としてはB級。感情的についていかなくても面白さを見いだせる人、SF好きな人には刺さるかもしれないけれど、時間が短くてすべてが半端になってしまった印象は拭えない。特にテーマをあまり語れてない点は大きな減点だったとしか言えないだろう。
僕自身はSF的なところや特撮というジャンルに対する発見のようなメタ的な視点で非常に楽しめたけれど、一方で多くの人に勧められない作品だと思う。
だがここに記したように、設定的にはかなり面白そうだ。この設定を生かして次の何かがあってもいいかなと思う。

庵野秀明の次の作品はシン・仮面ライダーだ

相変わらず素晴らしい絵力がある。構図からもう美しい。昭和仮面ライダーを意識したようなカメラワークや色彩設計も効果的に感じる。
こちらを楽しみにしておこうと思う。

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