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「じゃがいも」のお寺話38 国分寺

鎮護とは「災いを沈めて安泰にすること」と辞書に記載されています。
後の時代にもあるでしょうが、特に奈良時代は仏教をもって国を鎮護する思想が強かったかと考えられます。飢饉、戦、疫病などの災いがたくさんあった時代と言われます。鎮護国家、国家鎮護はどちらでも良さそうな表現ですが、鎮護された国は「鎮護国家」、仏教で国を鎮護する行為や思想を「国家鎮護」と言い分けたいでしょうか。そんな語感を持ちますが、個人差もありそうですし厳密な言い分けを議論するほど有意義な話ではないとも感じます。
仏教による国家鎮護は護国三部経と呼ばれる「法華経」「仁王経」「金剛明経」から起きている思想のようです。

聖武天皇は741年に「国分寺建立の詔」を出し、国家鎮護のために日本各地に国分寺を建立することを命じます。
国分寺は「金光明四天王か護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」の2つに分かれています。一般に金光明四天王護国之寺は国分僧寺(国分寺)、法華滅罪之寺は国分尼寺と呼ばれています。国分僧寺は男性僧侶、国分尼寺は女性僧侶(尼)のお寺です。どちらも国分寺であり国分寺には2種類のお寺があるということです。
南都七大寺のようなお寺とは別カテゴリーでしょうが当時の国分寺は官寺とは言えそうです。

大化の改新の国の体制作りの中で日本各地に国司という地方を管理する役職者が配置されるようになります。国司は朝廷から正式に任命された役職です。
701年に大宝律令が制定されて体制はより明確になり日本国内は現代の県、市町村に相当するような地方行政として国、郡、里が置かれました。
国とは日本のことではなく、大和国、河内国、山城国、摂津国など日本を66の地域に分けた一つ一つを国としています。各国に国司が派遣されて地方自治を任されていました。

聖武天皇は741年に「国分寺建立の詔」を国司に対して指示して国分寺の建立を進めたので66寺(×2)の国分寺が建立されることになります。国司の怠慢で国分寺の建立がなかなか進まないため747年に「国分寺造営督促の詔」を出して国司の下部組織である郡司に造営を移行して建立を進めたようです。
実際には隠岐と対馬に島分寺が置かれ、奈良は大和国分寺ではなく東大寺であり法華寺なので国分寺は65、島分寺2で67の国分僧寺と国分尼寺が建立されたと伝わります。
国分寺の中央のお寺が東大寺であり、国分尼寺の中央のお寺が法華寺です。総国分寺、総国分尼寺と呼ばれます。

国分寺は国府(役所)の近くに建てられました。国分寺がある場所は創建当時の国の中心的な場所と言えそうです。
とても壮大な計画だと思います。国家鎮護を達成し、結果として唐をはじめとする近隣諸国と対等な国づくりを進めた時代の象徴的な事象だと思います。

南都七大寺のような官寺が平安以降の国家体制の変化により廃れてしまったのと同じ理由で多くの国分寺は後に廃れてしまいます。国分寺跡として残る場合が多いですが、中には宗派を変えて現代まで存続しているお寺もあります。

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