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[鎌倉殿の13人が生まれる前] 保元の乱(後編)

 みなさん、こんにちは。ゆうさんです。
 保元の乱についての後編になっています。
まだ前編を見ていない方は、ぜひ前編をご覧ください。
https://note.com/yuu_jaga/n/n4a146d407e5d

それでは、スタートです。

1.前回のおさらい

 さて、前回は鳥羽法皇が院政でずっと実権を握り続けており、子である崇徳上皇には一切実権がいかなったのです。
 そんな中、鳥羽法皇が崩御し、今まで溜まりに溜まっていた崇徳上皇の不満が爆発し、当時の天皇である後白河天皇との争いになります。そして、摂関家、平氏、源氏も親子や親戚同士で争うことになったのです。

2.戦の経過

 開戦前に都では「崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで国家転覆を企てている」という噂が囁かれるようになっていました。
そこで、後白河天皇は先手として「頼長は自分の荘園(自分が納めている私有地)から兵士を集めていけない」という勅命を発します。さらに、摂関家代々の邸宅である東三条殿(現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近)を没収して、後白河天皇側が兵士を置いて本拠地としました。
 一方の崇徳上皇は御所を脱出して自身の妹がいる白河北殿(左京区丸太町通東大路西入南側、京都大学熊野寮内)に入り、そこを本拠地としました。
 ちなみに、東三条殿と白河北殿の間は鴨川を挟みますが徒歩30分ほどと比較的近い距離にありました。
 崇徳上皇側の陣営は頼長の私兵がほとんどですが、後白河天皇側は国家を背負っているため、兵は潤沢でした。

 崇徳上皇側は源為義の息子、為朝(弓の名手として有名)が作戦として「夜襲を仕掛けるのはどうでしょうか」と提案します。
 しかし、頼長が「夜襲などという卑怯な手は使いたくない。興福寺からの援軍を待ち、持久戦に持ち込みたい」とこの作戦を拒否してしまいます。
一方、後白河天皇側も夜襲が有効なのではないかと平清盛、源義朝が献策します。後白河天皇側は夜襲を採用、大軍を率いて実行に移します。
夜襲を仕掛けられた崇徳上皇側ですが、源為朝が獅子奮迅の活躍を見せます。
 平清盛の有力郎等(家臣)の藤原忠直、山田是行が犠牲になるなど後白河天皇側も損害が出ました。最初は鴨川を挟んで一進一退の攻防だったそうです。
均衡が崩れたのは後白河天皇側が新手の軍勢を投入し、白河北殿の西隣にあった藤原家成邸に火を放ちました。それが白河北殿に燃え移りました。
 このことにより、崇徳上皇側は総崩れとなり、雌雄を決しました。

3.戦後

 逃亡した崇徳上皇は後日、投降しました。このことにより、逃亡していた崇徳上皇側の武士、貴族も次々と投降しました。
 藤原頼長は首に矢を受けて重傷を負っていましたが、なんとか父のいる南都(奈良)に逃れました。しかし、父の藤原忠実に対面を拒絶され、その後、死去しました。
 頼長以外の処遇については下記の画像を参照してください。

 まず、崇徳上皇は讃岐へ島流しとされ、その地でなくなります。
 平忠正は甥の清盛を頼ったが、清盛は罪名に従い六波羅で処刑しました。
 源為義は子の義朝に降伏、出家しました。義朝は自らの戦功に変えて為義と弟たちの助命に奔走するが許されず、泣く泣く処断しました。
 ただ、源為朝はその武勇が認められ、伊豆大島へ配流となっています。
 源為義の処断については、信西(藤原通憲)と清盛が画策し、清盛が進んで叔父を処断することで、同じ罪人の為義を子の義朝が処断せざるを得ない状況に仕向けたとされています。こうすることで、源氏の力を削ごうとしたのです。

 勝利した後白河天皇側の処遇についてです。
 まず、藤原忠通は関白の地位はそのままですが、頼長の持っていた荘園は没収され、摂関家としては衰退していきます。
 義朝と清盛の褒美についてですが、かなりの差が出てしまいました。
源義朝は左馬頭(馬屋の管理者)、清盛は播磨守(播磨一国の長官)です。差は歴然です。

 この処遇の差がのちにもう一つの乱「平治の乱」へと繋がっていくのです。

 さあ、保元の乱についてはここまでです。
 次回は平治の乱について書こうと思いますのでよろしくお願いします。
 ありがとうございました。ほなまた〜。

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