校門

 ある少年は放課後、校門で人を待っていた。
 雨が降っていたので、側の教員用の駐輪場の屋根の下に身を隠した。ここには彼以外いない。
「…もうみんな帰っちゃったのか。」
 駐車場の一台の自転車にカマキリが止まっていた。会話相手には、なりそうにない。
 まだ、放課後を過ぎて間もない頃だが、子供達の喧騒は聞こえない。し、おそらくみんな帰っていても息を潜めるように歩き、あるグループだけが、猛々しく笑って歩いていることだろう。というのも、その彼らはクラスで逆らうものがいるのならば、荷物を隠し、靴はゴミ箱に入っており、給食は泥だらけで、教科書はボロボロになる。ましてや、みんなの前で公開処刑のように、あちらこちらに振られながら、蹴られ殴られするのは本当に笑わずにはいられない。それのせいで皆、気づかれないように、透明人間のように、気味悪がって近づかないよう、足早に放課後のチャイムと共に去って行くのだ。
 そのかわり先生たちは、一応見張るためにそこら辺をうろうろして、『さよならー』という声かけをしていた。今この時間にそこら辺をチラチラ歩いている先生を見ると、(見つかってはいけない)と思うほどだった。ある教員は、駐輪場の自転車に近づき、彼を見ると、小さな声で「さよならー」とペコリとお辞儀し、サドルの上のカマキリをピンッと、飛ばした。--もっとも彼は、それがカマキリだとも気づかなかったであろう。さらにいうと、それに触れるだけすごいのかもしれない。ただ、去り際には、触れた手を振り回し、その過去を亡き者にしようとしている節がある。彼はペコリとお辞儀を返して、自転車が居なくなったそこに座り込み、地面に染みている水がパンツまで濡らしていくのを気にせずに、右頬にできたニキビを触っては気持ち悪いと思っていた。
「いてて。」
 まだ雨は降っているようだ。
 私は彼が、『少年は校門で人を待っていた』と言った。しかし彼は、待ち人が来てもそのまま帰るだけなのだ。普段ならその人を待たず、親の待つ家に帰るはずである。ところが昨日の夜、親から「もう帰ってくるな!!」と怒鳴られ、部屋で伏せており、今日は帰れないと思っていた。私が前述したように、学校のクラスには、そういう『いじめ』が蔓延している。今、1クラスしかない学校の6年生になった彼が、親から怒鳴られることは、そのせいではないかと思う。だから、「もう帰ってくるな!!」と親から一方的に怒鳴られたというより、「僕…もう中学校なんて行きたくない。」と打ち明けたのが、原因だろう。そこに雨が降っているのにも関わらず、「うちにおいでよ。」と声をかけてくれた友人が、現代に生きる彼のSaintmentalを感じさせた。
「まだ止まないのか…。」
と、口を突いて出る。帰れない事実を事実のまま胸に秘めて、ただ駐車場の屋根を叩く雨が止むのを待つようであった。
 雨は校舎を隈なく濡らして行き、その音はさらに激しくなるようだ。徐々に雲がかかっていることと、駐輪場の屋根も助け、周りは人を認識するのに難しくなるほど暗くなって行く。
「さて…本当に…どうしようかなぁ…。」
 ふと、くしゃみがひとつ。そして体を震わせた。立ち上がり、体を温める様子をする。
 少年は体を小さくし、雨や風が当たらない、駐車場の奥の方へ歩いていった。
 あるところに、二方向を遮り、上から覆い被さるような屋根がかかった一角を見つけたが、そこに影に隠れた何か人影を感じた。
 少年は、蜘蛛のように静かにそこへ近づいていった。それが何かを見極めるために、獲物を獲るように、目をじっと凝らしていた。
 見るとアリの行列がある。それは、人影の方へずっと続いており、帰ってくるものはいなかった。ここには、噂で聞いたように、蟻塚があると聞いていたが、今、この雨の中大丈夫なのだろうかと思っていた。そして、駐輪場の光にはそれを咎めるように、蛾が集まってぶつかっている。
 少年は、顔に向かってくる羽虫を手で払いながら、歩いて近づいて行く。
 少年は、まず、そのアリの行列の先から「ふふ…ふ…。」という声が聞こえた。そこには、この季節に短パンを履いた、小太りで脂汗まみれの少年が、駐輪場の明かりにぼんやり照らされていた。その小太りの手の先にはなにか塊があった。ありを辿るなら、砂糖か何かだろう。
 少年は好奇心に駆られ、ある自転車の影から彼の様子を伺っていた。
 そこに『バンッ!!』と音が鳴るたびに、彼がかわいそうになってきた。それと同時に、小太りへの憎悪が増えて行くようだった。--いや、この小太りに対するものではない。むしろ、全てに対する不快が、徐々に強くなってくる。この時、誰かがこの光景を見たら、『帰るか帰らないか』問題を、改めて持出したら、恐らく少年は、何の迷いもなく、帰らない方を選んだ事であろう。それほど少年の悪を憎む心は、小太りを照らす明かりのように、明らかであった。
 少年には、もちろん、小太りがそんなことをしているのかわからない。だから、それの善悪はわからない。しかし少年にとっては、今日、この校門の近くで、小さな生き物の命を奪う事が、それだけで既に許せない悪であった。少年は、さっきまで自分が、『帰らない』と頑なだったことは、とうに忘れていた。
 そこで、少年は、グッと力を入れて、いきなり、その影へ飛びこんだ。そうして、大股に小太りの前へ歩みよった。小太りは驚いたようだった。
 小太りは、「ひぃ。」と声を上げ、逃げようとした。
「お、おい!お前!どこへ行く!」
 少年は、小太りが逃げることのできる一方を塞いで罵った。小太りは、それを少年を突き飛ばそうとする。少年はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。少年はとうとう、小太りに突き飛ばされてしまう。小太りはそれを見て立ち止まる。
「…何をしていたんだよ。言えよ!」
 少年は、小太りに飛びかかると、いきなり、拳を振り上げた。けれども、小太りは黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、目を落としそうなほど見開いて、頑なに黙っている。これを見ると、少年は始めて明白にこの小太りの如何が、全然、自分の思う通りではないとわかった。そうしてそれは、今まで大きく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。
「はは…おい。」
そこで、少年は、小太りを見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「ぼ…俺はお前の知る、あるグループの人間ではない。さっきからここで人を待つ一人だ。だから先生に言って、どうしようという事はない。ただ、何をしていたのだ?」
 すると、小太りは、目をじっと少年の顔を見守った。目が充血した、まるでキレているような、鋭い眼で見たのである。それから、脂肪で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、モゴモゴと動かした。太いのに細く短いアリのような声で
「あ…アリはさ…。僕の意思でどうにかなるんだ。」
「…はぁ…?」
「あ…あぁ。君はいじめられてないんだね。あ、これが悪いと思ってるし、ダメだと思う。でも、君はいじめられてないんだね。だってアリは、僕が何をしても怒らないんだ。こうやって僕の心を穏やかにしているんだ。先生たちだって知ってるんだ。僕がここにいて、アリをいじめているの。誰もとがめないし、悪いとは思っているから。」
 小太りは、大体こんな意味の事を云った。
 少年は、拳を下げ、冷然として、この話を聞いていた。振り上げた手では、大きくなった気がするニキビを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、少年は、ある勇気が生まれて来た。今までの少年には欠けていた勇気である。また、さっきこの影に入る勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。少年は、『帰るか帰らない』かに、迷わなかったばかりではない。
「あ…そうか。」
 少年は嘲笑うような声で念を押した。そして、その場で留まり、不意に気づいたら伸びていたニキビへの右の手を離して、小太りの襟をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、俺がお前をいじめてもいいんだろうな。」
 少年は、すぐ小太りの顔を殴った。小太りは鼻から血を流しながら倒れた。目には涙が浮かんでいる。
「これから…よろしくな。」
 小太りの絶望した顔はわすれない。

「おまたせ。」
 ある女教諭が少年に声を掛けた。それは、走ってきたからか、何かを期待しているのか。
「じゃあな。」
「?友達?」
「いや…もういいよ。俺今日帰れなくて…。」
「…そっか。いつまでもいていからね。」
「うん。」
 少年の行方は、その『女教諭の逮捕』後も誰も知らない。

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