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「普通」ハラスメント

この場合の「普通」を強いて言い換えるとするなら、平均的、大多数、スタンダード、マジョリティ、辺りでしょうか。私の苦手な言葉です。ともすると心が闇落ちする位には。

ほんのごく最近のことなのですが、この人とお話した後ってどうも心が抉られがちだな、と思うことが何度かありました。お仕事上お話しない訳にいかない方ですので、どうしたものか、というかどうしてなんだろう、と考えてみたところ、その方が私に向けて「普通こうじゃないですか」とか「こうするのが普通ですよね」とか、そういう言葉を頻繁に使うからだ、という事に気づきました。

私は、端的に言って出来る仕事にもの凄く偏りのある人間です。アスペルガー傾向、ADHD傾向がある為、手順が決まっていたり、完全に手に染みついているような事の繰り返しはもの凄い効率でこなすことが出来ますが(ともすると過集中気味に)、融通をきかせたり、空気を読んだり、臨機応変に対応を変えなければいけないようなことは滅茶苦茶苦手と言っていいかと思います。そのうえコミュ障なので、接客や営業は絶対に無理です。コールセンターのようにマニュアルがあれば受電は可能ですけど、得意な方ではなかったです。
今までしてきた仕事と言えば、

・事務(PC知識が割とある方&キーボード入力がかなり早いので、ほぼOA事務でした)
・WEB制作(それもデザインというよりコーダーとかPhotoshop職人の色彩が強かったです)
・プログラマー(HTMLから派生した仕事によりPHPのみしか書けないといういんちきです)

というような感じで、大体土方系IT(決してSEなどではない)かなと。バイト含めるともう少し広がりますが単純作業に変わりないですし、一回だけバイトで接客やって「ほんともう絶対無理」と思い知っております。

本当に有り難いことに、そしてもの凄く稀有なことに、今の上司は私という人間がこういう特徴・傾向を持った人間だということをいち早く理解し、であればこういう作業に使う、こういう指示の出し方をするのが伝わりやすくロスやミスが少ない、というようなことを考えて下さる方です。注意欠陥、一つのことに囚われがち、という私でもちゃんとその作業を瑕疵なく出来るように配慮をして下さる上に、私がミスをしでかすと、その時の自分の指示を振り返り「あ、ここは俺の指示が悪かった」とかフォローまでして下さいます。有り難すぎて、他にどんな難があろうとこの方の下でずっと働いていたいと思う程です。
ただ、そういう方は本当に稀であり、大抵の場合「え?普通こうじゃない?」とか「なんでそんな当たり前の事が判らない・出来ないの?」とか、そういうお叱りを受けるのみで、私の面倒な傾向やら特徴やらに目を向けるなんてことはありません。私の上司がそれをするのは「だってそうした方がミスも減るし時間もかからないから」という、謂わば極端な効率主義の結果であるとも言えて、別段私個人への思いやり等でもないですし、大抵の場合そこのロスは見過ごされるものです。

そんな上司の有り難さにここの所甘やかされすぎて、だから今まで喰らっては抉られて、抉られることがある種当たり前だった「普通こうじゃね?」という投げかけに、殊更抉られたような気持ちになってしまった、ということなのだと思います、恐らくは。

私にとって、自分自身が「普通」の領域にいない、大多数VS少数という構図があるときに、まずもって大多数の方にいることの方が少ない、というのが現実です。自分自身が「普通」ではないと突きつけられることなんかいつものことで、そんなことで一々心を抉られていては日常が立ちゆかないので、あぁはいはいいつものことね、と過ごしてきた筈でした。
物心ついたときには家に父親という存在はいませんでした。父母の別居→離婚により、他人と自分の彼我の差分を殊更感じるようになる幼稚園や小学校入学時には、既に「母子家庭」という少数派(当時はかなり)でした。
そんなことからスタートして、激しい痛みを伴う持病であったり、ADHD&アスペルガー傾向であったり、セクシャリティであったり、中々他人様、どころか家族にですら理解や共感を得られないことが沢山あって、世の中様は私にとっては生きづらい場所でありました。というか現在進行形で生きづらいです。
自分自身の努力で変えられないものを、責められたり怒られたりするのって、慣れているとはいえやっぱり辛いですし、自分の好むものや自分の感じ方を奇異な目で見られることを、「人とは違う俺様ウェーイ」と酔っ払っていられる感覚は元よりありませんので、ただしんしんと骨身に堪えることもあります。

身の処し方として、生きるために、慣れたり諦めたりしましたけど、本当はそれがもの凄く口惜しかったり、私じゃなくて社会の方がおかしいだろと強く思うこともあります。だから私は有吉佐和子さんが大好きで、大尊敬しているのです。
ただ、活動家をやれるほど心身が強くないですし、怒り続けるエネルギーもありませんし、愛情と容量と体力の問題で猫と歌以外に身を捧げることもできないので、社会を変えることに献身もできません。
だからせめて、自分の代わりに何か言って下さる方を応援したり、ちゃんと投票に行ったり、疑問に思ったことがあったら行政に問い合わせたり、意見を言う機会や署名をする機会があれば協力したり、非力な私にでも出来る事はしているつもりです。

持てる者は持っている事に非常に鈍感です。逆に持っていない者は常に「ないよね」ということを突きつけられ続けています。そのこと自体を「ハラスメント」と言えば言える訳で、私にとっては当然ではないことを「普通は~~じゃないですか」と言われる度に、闇落ちしそうな心を支えつつ、あぁハイハイマジョリティ様マジョリティ様と胸の内で毒づきたくなる事も多いです。

そういう私の心を、静かにいやしてくれた本をご紹介します。つい先日出たばかりの遠藤まめたさんの著書で、『みんな自分らしくいるためのはじめてのLGBT』というタイトルです。LGBTについての本って当事者が読む場合「うん、そうだね、知ってる」というだけで終わってしまうこともあるのですが、このご本は帯に大きく「当たり前に疲れたあなたへ」と書いてありました。当たり前、普通、そうですね、もの凄く疲れてます、そう思って私はこの本を買いました。
遠藤まめたさんはセクシャルマイノリティや若者の生き辛さを解消する方向へ活動なさっている方で、その語り口やスタンスが好きで、SNSでフォローさせて頂いたりしてます。
この本も、大仰に構えず、平易な言葉で、ドラマティックになりすぎず、冷静に、「こんなこともあるんですよ」「こんな風だと良いと思いませんか?」と伝えて下さっています。「当たり前」やら「普通」やらをぶつけられて疲れていた心に、実に染みました。

マジョリティであること、持っているということに鈍感であること、それがマイノリティにとっては刃となり得る、という事を語った本といえば、当事者以外にLGBTに関して資料が欲しいと言われたらまず私がお勧めする、『真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』というのもあります。これは書いている方が海外の方なので、特に白人のマジョリティに向けた啓発本になります。ですから日本のLGBTQ界隈にもの凄く適している訳でもないのですが、まず持っているという事を自覚して、無自覚故のハラスメントをやめて頂きたい、という訴求力は結構あると思います。

「普通」と言われるものは、案外ざっくりしていて時世や土地に応じて変わったり違ったりしているものです。そういうものを「唯一の正義」のようにぶつけられると、痛い人間もいるのだということは、もう少し理解が進むと良いのになと思います。とりあえず、私は疲れているようです。

あぁ、訳あって先だってから複数回、鬱病診断的なテストを受けたのですが(ごく初歩的な、そして心療内科に初診でかかると必ず出されるものです)、その中の項目に「性欲は普通にある」というものがあります。それだけなら別に構わないのですが、態々その後ろに括弧書きで「異性との付き合いをしたいと思う」的な事が(正確な文言は忘れました)書いてあるのです。性欲の対象が異性だけって誰が決めたんでしょうか。アセクやノンセクの人についてはどうなんでしょう。性欲と恋愛が必ずしも両立しない場合もあります。心療内科ですらこれですからねぇ。そのチェックシート出される度に、「異性」の文字をぐちゃぐちゃに塗りつぶして提出しました。…そういう事も疲労の一因かもしれません。





※マシュマロ始めてみました。コメントより気楽かなと思って。
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