自己自身であること

神の山ホレブの燃える柴の中で、モーセが神の名を尋ねたとき、神は次のように答えたと云います。

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記 第3章14節)

何者かであること、ひとかどの者であることを是とする社会で、とりわけ現代のように力(ちから)あるひとかどの者たちが、そのメンタリティで社会全体を支配し、まさに人が何者かでなければ、社会的経済的条件すら暴力的に脅かされる環境の中にあっては、人が自己以外の何者でもないことは大変難しいことです。

しかし、「私」というものが社会や文化によって深く鋳型にはめられているにも関わらず、どこかで常にそこからはみ出し逸脱する存在でもあることを大切にし続けながら生きることは、人間精神の自由にとって欠かせない条件であるように思われます。
そしてその時こそ、社会からの承認による自己尊敬とは異なる、自ずから成る自己尊敬の念が生じ、「自己自身である」ことの責任感と使命感をもって、ありのままの自己を引き受け、世界と対峙できる強さも出てくるのだと思います。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節)

一方で、自己自身であることを遮るのが外なる社会の力であるならば、他方、自己自身を回復させてくれるのも、外なるキリストの力による、ということでしょうか。

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