カトリック清流

2015年カトリック教会にて受洗。清らかな流れに身をゆだねます。

カトリック清流

2015年カトリック教会にて受洗。清らかな流れに身をゆだねます。

最近の記事

[デュモリン] 知性教育(2)

デュモリン神父の『全き人間』より知性教育について、前回の続き。 ---------- 真の知性教育 まことの知性教育というものは、このような戯画をつくりあげるためのものではない。また学校で課される一定の分量をひと通り修得すれば、それでよいというものでもない。各人の知識はその種類や程度からいって、それぞれ大いに異なっていてよいのである。自然科学者、文学者、経済・法律学者などの知識の範囲が相当違っているのは当然であろうが、真の教養人であるためには同一水準に達していなくてはなら

    • [デュモリン] 知性教育(1)

      引き続き、デュモリン神父の『全き人間』から、知性教育に関する部分を転載する。 ---------- 知識の戯画 まことの教養人というよりは、知識の戯画(カリカチュア)とでも呼びたいようなひとびとが大勢いる。しかし、このようなひとびとからも、学ぶことがないわけではない。 「専門家」ーーー人生のほんの一小部分にすぎない自分の専門だけに打ちこんで、他をかえりみようともしないひとびとがいる。自分の専門に全力を集中するということは、決して非難すべきことではない。しかし、自分の専門

      • [デュモリン] 全き人間

        ハインリッヒ・デュモリン神父(1905-1995)は、長く上智大学・東洋宗教研究所などで教便をとられたイエズス会士である。 そのデュモリン神父の書かれた小冊子に「全(まった)き人間」というものがある。 翻訳者は上智大学名誉教授・ドイツ文学者の戸川敬一氏。 初版は1948年。戦後間もない時期に世に出された本である。 後(のち)の新訂版にあたって、著者は次のように語っている。 「この小冊子が戦後間もなく初めて世に出た時、戦争の苦しみに痛めつけられ、きびしい試練を受けた世

        • [教皇フランシスコ] 復活の聖なる徹夜祭

          2017年は、緊迫する国際政治情勢の中、復活祭(イースター)を迎える事となった。 神の子の受難と、そして復活への信仰。 世界に広がる教会共同体のひとりとして、ローマ法王(教皇)の言葉に一致してゆきたい。 (以下、バチカンの復活徹夜祭における、教皇フランシスコの説教の転載になります。) 「復活した主の鼓動を、皆に伝えに行こう」教皇、復活徹夜祭で カトリック教会の典礼暦は、4月16日(日)、「主の復活」の大祝日を迎えた。 教皇フランシスコは、聖土曜日4月15日の夜、バ

        [デュモリン] 知性教育(2)

          聖堂日記

          2017年3月21日火曜日 雨 仕事を終えた帰路、午後6時40分、道を撃つ雨音に包まれながら、教会の敷地へと足を向ける。 辺りは暗く、ひと気もない広い敷地に、聖堂は佇(たたず)んでいる。 大きな尖塔が特徴的な聖堂は、薄暗い闇のなか、ぼんやりとライトアップされ、内部の照明はステンドグラスに暖かさを醸し出している。 聖堂の扉は一段高いところにあり、短い階段を登り、傘を畳んで、幅のある扉をくぐる。 予想通り、他の訪問者はおらず、ただ少しの照明によって薄明い静かな空間が広が

          使徒の報告

          マルコによる福音 そのとき、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 イエスは舟から上が

          証人の群れ

          ヘブライ人への手紙 皆さん、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐され

          無学と無力

          使徒パウロのコリントの教会への手紙 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。 人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神

          神の国

          マルコによる福音 そのとき、イエスは人々に言われた。 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 更に、イエスは言われた。 「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものであ

          気が変になっている

          マルコによる福音 そのとき、イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。 「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 ------- 食事をする暇もないほど忙しい、というのは、たとえば医者がそうであるように、尊厳を持って頼りにされ、人様のお役に立てる仕事をしている場合には、人生の充実と幸福を象徴する一場面ともなる。 動機は何にせよ、群衆も集まり、身内も集まる

          気が変になっている

          来て、見なさい

          ヨハネによる福音 イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 フィリポはナタナエルに出会って言った。 「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 イエスは、ナタナエル

          来て、見なさい

          生きることの切実さ

          クリスマスも過ぎ、今年も残すところあとわずかとなった。 困難の多かった一年も静かに終わりつつある。 しかし同時に、さらなる困難が予感される新年の鼓動もまた、耳元に聞こえはじめる。 経済、健康、人間関係。 世俗の都市生活の喧騒(けんそう)に生きる者にとって、不条理な軋轢(あつれき)にさらされない日はない。 「社会」という、歴史の中で累積された巨大な現実的圧力の前に、微力な個人はなす術もない。 マモンの怒りをなだめるべく捧げられる人身御供(ひとみごくう)のように、弱者

          生きることの切実さ

          誰もいない名前

          ルカによる福音 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。 父親は字を書く板を出させて、「こ

          誰もいない名前

          おめでとう

          ルカによる福音 そのとき、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。 そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 すると、天使は言った。 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身

          休ませてあげよう

          マタイによる福音 そのとき、イエスは言われた。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 ------------ 疲れた者、重荷を負う者は、やがて自らの足で歩けなくなる。 その疲れ、その重荷は、自分ではない誰かによって、課され強いられたものである

          休ませてあげよう

          迷い出た一匹

          マタイによる福音 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。 「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 ------------ 迷い出た一匹の羊。 これは、この<わたし>