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一面的な見方は、見る人と相手を箱に入れる

一つの基準で他人をジャッジする危うさ

 どんな人も多面的な存在なので、ある一つの基準だけで、その人の全貌を計るのはほとんど不可能だ。

 こんなことは、ちょっと生きてみれば、わかりそうなものだが、わからない人はわからないらしい。

 例えば、「お金を稼ぐ能力がある」「お金持ち」という基準で、他人をジャッジする人は、相手が、どれほどコミュニケーション能力が高かろうが、親切だろうが、優しかろうが、洞察力があろうが、それらをゼロ評価、あるいは過小評価するのではないだろうか。

 母の視点では、昨年4月から、今年4月までの家にいる時の私というのは、「日中、部屋に閉じこもって、ピコピコパソコンをいじっている。働いていない。何もしていない。お金も稼がず、家にお金も入れない」という認識らしい。

 もしかしたら、
・パソコンを使って、有意味なことをしているかもしれない
・パソコンで情報収集をしているのかもしれない
・パソコンで、誰かを助けているかもしれない
・パソコンで、誰かと有益なコミュニケーションをしているかもしれない
・読書をして、見識を深めているのかもしれない
・瞑想しているかもしれない
・運動しているかもしれない

という風には、どうも考えないらしい。

 また、旅行や友人たちと外で会ったことや、勉強サークルに行ったことも、ゼロカウントされている。

 とても偏った、事実と乖離した見方だが、母が、自分の見方を再考した試しは、今まで一度もない。

職場のあの人だけで、あの人の何がわかるの?

 これが、他人ならもっとわかりやすい。

 仕事で、毎日顔を合わせている人であっても、その人が、自分の見えていないところで、どんな活動をしているかは、自分にはわからない。

 職場ではパッとしない人でも、趣味のサークルでは、職場とは全く違った、生き生きとしたふるまいをしているかもしれない。

 余暇にボランティアをして、多くの人を助けているかもしれない。

 「職場でこうだから、他の場所でもこうだろう」というのは、いろんな事実を見落としている。

 職場では上下関係があるし、慣れない仕事もやらざるを得ない面があるし、緊張で、本領を発揮できないこともあるし、人によっては、いろいろ大変な面がある。

環境が異なれば、ふるまい方が変わるのは当たり前

 ある環境のその人と、自分が伸び伸びとできる環境でのその人を、同列に見ることはできない。

 誰かの全部を知ることはできないので、ある一面だけ見て、その人の全部をジャッジすることを、私はしないようにしている。

 振り返ってみると、両親は、私だけでなく、自分の基準から外れるように映る人を見聞きすると、すぐに、「あの人、おかしい」と言うことがあった。

 横で聴きながら、「なんとおそろしい人たちだ」と思ったものである。

 その同じ基準で自分が見られたら、どう感じるかとは、おそらく想像したことがない。

 私が、多面的に物を見るようになったのは、両親を反面教師にしたという面もあるだろうが、多面的に物事を見る人に出会い、そういう人たちに影響を受けたという積極的な面の方が大きい。

多面的な人だったルドルフ・シュタイナー

 ルドルフ・シュタイナーは、著書や講義で、「一面的になってはならない」と、口を酸っぱくして言っていて、物事をいろんな視点から見るように、強く勧めていた。

 それは、彼の著述スタイルにも表れている。

 彼が、哲学であれ、物理学であれ、ある学説の潮流を述べる時は、Aという学者の立場に身を置いて、世界がどう見えるか、Bという学者の立場からは世界はどう見えるか、そんな風な記述になる。

 だから、その一つ一つがシュタイナーの意見だと思ってしまうと、「このシュタイナーという男は、あっちではカントの理論を擁護したかと思えば、こっちでは、カントの批判者の立場に立っていて、矛盾している」という判断を下すことになる。
 
 大抵、シュタイナーは最初に、「自分はこの本で、こういうことを述べようと思うので、こういうことを書いていく」と書いているのだが、多くの批判者は、そこは読んでいないか、理解できないか、あるいは忘れている。

 シュタイナー自身が、哲学者、教師、ジャーナリスト、神秘家、科学者、芸術家、詩人という複数の働きを行っていた、実に多面的な人だった(これに政治家を加えると、ゲーテになる)。

 ただ、私が何人か出会った、多面的な働きをしつつも、精神的に未熟な人たちと違って、シュタイナーは、人格の成熟もきちんと行っていたのが、すばらしいと思う。

 晩年は、自分のところにやってくる人たちの人生相談に文字通り命を賭しながら、ゲーテアヌムという建物の完成に努力し、毎日、講義や講演も行っていた。

 さらに社会問題もしばしば取り上げ、ナチズムの危険性についても、極めて早い段階で気づいていた人の一人だ。

 おそらくそれが、ナチスから、危険視された理由だっただろう。

一面的な見方に潜む愚かしさ

 どれほど平凡に見える人も多面的というのがわかってくると、シュタイナーのような人が、いかに突出しているかが、わかる。

 シュタイナーのような人を、一つの基準、例えば、「芸術的才能がある」「お金を稼げる」「結婚している」という基準で計ろうとするのは、愚の骨頂だろう。

 だが、そんな愚行を、我々は、身近な人にしていないと断言できるだろうか。

 この記事で書いたように、母の罵倒のようなジャッジは、苦しんでいる人に対して、あまりに心無いし、置かれた状況や背景を、あまりに見ようとしていない。

 これは今に始まったことではないが。

 こういう一面的な物の見方が権威主義やテレビ信仰とあいまって、567についてのオルタナティブな見方を受け入れない要因なのかもしれない。

合う人とだけ付き合っても、人間的にはあまり成長しない

 自分と合わない人とは付き合わないとか、「あの人はおかしい、異常」とジャッジすれば、自分の物の見方は全く揺り動かされないので、安心かもしれない。

 だた、そういう生き方は、人間的な成長には、ほとんど寄与しない。

 人間としての枠は、広がらないままだ。

コスタリカや山梨の真球

 コスタリカや山梨の甲府に、真球がたくさんある。

コスタリカの真球

コスタリカの真球


甲府の丸石

甲府の丸石

 どのようにしてできたかについては、諸説あるが、甲府の方はこういう過程でできたらしい。

 何万年前か、日本列島は、甲府付近を中心にして、東と西で、土地が離れていたらしい。

 東側の列島は、とてもゆっくりと、右回転していた。

 西側の列島は、とてもゆっくりと、左回転をしていた。

 その間にあるポイントで、岩石が両側から、同時に逆回転で削られることによって、あらゆる角度から削られて、あのような真球ができたという。

 これは、何万年という非常に長いスパンでの現象だ。

 おそらくコスタリカも同様ではないかと思われる。

 自然現象なので、特に目的はないと言える。

人間的に丸くなった人とは?

 角が取れて、物事への理解が広く、深い人を、「人間的に丸くなった」と表現することがある。

 この言葉は、いろんな方面から、その人の角が削られて、成熟した人間になったということを示唆している。

 その削られ方は、本人にとって辛いこともあっただろうし、自分で削った面もあっただろう。

 不要なものを落とし、必要なものを取り入れたり、磨いたりしたかもしれない。

 自分の抱える葛藤や不安、向き合いたくないことにも、向き合っただろう。

 それらをするのには一定の時間と労力がかかる。

一面だけに焦点を当てるのは、自他を矮小化すること

 さらに、輪廻転生を考慮すれば、同じ人など、全くいないわけで、自他のある一面だけに焦点を当てることは、膨大な経験・豊かさを捨て去るようなものかもしれない。

 それは、究極的には、「自分を愛する」こととは、真逆の営みだろう。

 自分を、小さな点に閉じこめることに他ならない。

 おそらく、物事や自他を、一面的に捉えるというのは、非常に限られた枠にその物や人を押し込めるという点で、暴力と言えるだろう。

 和尚の言い方を借りれば、その人たちは、それが一面的だと気づかないほどに、無意識で、眠っているから、同情すべきなのかもしれない。

 あるいは、多面的に見られる人は、彼らの「一面的な物の見方」を強く脅かすように感じるから、頑なに、自分の視点に固執するという面もあるかもしれない。

多面的に見られることの利点

 物事を多面的に見られれば、状況が厳しくても、どこが大丈夫で、どこがそうでないかが、冷静に見極められるようになる。

 また、様々な情報を結びつけられるので、点のような情報で一喜一憂するのも減らせる。

 物事の多面性に目を開かれるというのは、長い目で見ると、多大な利点を、自分にもたらすものだと思う。

 


 

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