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人間関係が持つ必然性を理解する

 最近、デーヴィッド・アイク『ムーンマトリックス1』を読んでいます。

 邦訳は全5巻ですが、原書は一冊の分厚い本です。

偶然に人間関係が生じることはない

 「訳者まえがき」で、翻訳者が最も気に入っているものとして、引用するのが次の文章です。

 人間関係について、重要な洞察を含んでいると感じます。

 “良い人間関係であろうと悪い関係であろうと、誰にでも言えることだが、心(マインド)で認識する限りは「必然」とは思えないだろう。だが、偶然に人間関係が生じることはない。特に家族についてはそうだ。家族の人間関係に問題があるならば、なぜそうなっているのか、あなたにどんなメッセージを伝えようとしているのかを自問してみるとよいだろう。もしかすると、変わらないといけないのは、あなた自身かもしれない。あるいは、家族の血のつながりという錯覚を断ち切り、本当の人間の絆は根源意識を介したものだということに気付くよう求められているのかもしれない。この観点を得れば、今までの人生をずっと一緒に過ごしてきた家族よりも、10分前に出会った人のほうに、共通するものをたくさん見出し、太い絆を感じることも可能である。家族に固い絆がある場合でも、実は血縁(これは心(マインド)の錯覚だ)ではなく、根源意識(コンシャスネス)によるものである。”
(『ムーンマトリックス1』ヒカルランド、2019、p,145)

用語解説とアイクの中心テーマ

 若干の用語解説をします。

 「心(マインド)」とは、思考です。これは、「区別、構造、言語、階層、法律、時間、空間、個別性として現実を知覚」します。

 「根源意識」とは、「本当の私」「不朽不滅の私」です。

 「人類は、「根源意識」であり永遠なる自己である本当の「私」と、肉体・心・個性などとを、深刻なまでに混同している」というのが、本書の中核にあるテーマです。

 と同時に、様々な詐術によって、「根源意識」から切り離され、肉体や個性や体験を自分と思い込むように、いかに仕向けられてきたか、それから抜けて、いかにして「根源意識」としての自分を思い出すかが、もう一つのテーマであり、アイクが初期の著作から取り組んできたことでもあります。

 引用文を、これらのテーマに即して言うならば、自分から見て「悪い人間関係」や「問題を抱えている人間関係」というのは、心(マインド、思考)の側からすれば、「問題」のように捉えられても、もしかすると、それは、根源意識によるメッセージかもしれない、「真の関係は、根源意識によるものだと気づけ」というサインかもしれない、というのです。

10分前に出会った人との、太い絆

 さて、インターネットでのコミュニケーションが日常となった現在、「10分前に出会った人のほうに、共通するものをたくさん見出し、太い絆を感じる」ことを、実際に経験している人は、たくさんいるのではないでしょうか。

 特に、567や枠珍、2020年のアメリカ大統領選挙、フッ化物や食品添加物・農薬や電磁波の害などについて、気象兵器や地震兵器についてなどに関心を持たれ、周囲に話をした人たちも少なくないでしょう。

しかし、理解者が得られない人が大半だったのではないか。

そんな中、孤立した思いを抱いていても、ネットでは、同じような考えを持った人と出会えて、あるいはそういう考えの人がいると知って、元気が出た、そういう体験をした人は、少なくないように見受けられます。

 私自身を振り返ってみても、Facebook、Twitter、noteのおかげで、「自分は孤立している」という感覚を強く感じることなく、自分を見失うことなく、この5ヶ月ばかりを歩んでこられたと、感謝と共に思います。

全ては必然ということの本当の意味

 また、翻訳者は重要な指摘をこの引用についてしています。

 それは、ここに、全ては必然ということの本当の意味がある、ということです。

 つまり、「悪い人間関係を終わらせたいのであれば、その人間関係の持つ意味を理解すればよい」ということです。「そうすればその人間関係の必然性が消えるため、人間関係が終了(疎遠になったり断絶したり気にならなくなったり)する。これは個人的な人間関係だけでなく、政治的な支配・被支配の関係にも言えることだろう。邪悪な人々に支配されている(これは悪い人間関係の一例だろう)のは何故か? その意味を知れば、そうした人間関係は終了するというのである。逆に言えば、そうした嫌な人間関係が続いているのは、その必然性をいまだに理解できていないからと解釈できる。」(p,27)


 これまで、いくつかの記事で、友人関係や家族関係のことを取り上げてきました。

 3/1の記事では、直前の、友人とのやり取りと断絶を書きました。

 お金の絡む出来事だったからこそ、友人の未熟な本性と、私が彼ら夫婦を見誤っていたことがわかったと言えるかもしれません。

 何度も旅行に行き、友人の父親の葬儀に行き、相談にも乗ったけれど、根本的には、一致していなかった。

 彼の、困っている友人に借金の「提案」というのは、今でもどうかと思いますが、人としての成熟さとか、本物の絆についての気づきを与えてくれたという点では、とても感謝しています。

 家族、特に母との関係では、その関係が持つ意味、あるいは必然性を理解しようとしています。

 母の、「外で仕事を見つけないとだめ。家で(パソコンを使って)仕事するなんて許さない」「人生設計がおかしい」「(トランプ大統領や567関連の情報について)お前の言っていることはおかしい。新聞やテレビでは言ってない」といった言葉や、私が続けていることをゼロカウントする発想、自分の理解・常識の外のことは全否定するか、話を打ち切るといった態度。

“家族の血のつながりという錯覚を断ち切り、本当の人間の絆は根源意識を介したものだということに気付くよう求められているのかもしれない。”(p,145)

 母の一連の言葉・発想・態度は、「血縁という錯覚を断ち切り、根源意識とつながり、そこから生きよ」という根源意識からのメッセージなのかもしれません。

 母を変えることはできないし、どんなに辛抱強く、言葉を注意して発しても、彼女の理解を超えてしまう。

 理解を求めても、「理解しよう」という意欲がない人に、それはむずかしい。

 もっと言えば、私は、「母の期待」に沿った考え方・行動はもはやできないところに来ています。

 母の抱く「世間の標準」から著しくズレており、その観点からすれば、私の考え方・観点・行動は、気が狂ったように映り、また嘲笑するのも無理からぬことでしょう。

日常的に人類を隷属させている監獄から自由になる

 デーヴィッド・アイクは、根源意識とつながったことで、正気に戻っていきましたが、それは周囲の目には「狂気の沙汰」に映ったため、イギリス中の人から嘲笑されることとなりました。

 しかし、それゆえに、彼は、心(マインド)の監獄と「世間の標準」から脱することができました。

 「他の人にどう思われるだろうか」という畏怖が、「心を根源意識から断絶させる監獄」であり、「日常的に人類を隷属させている監獄」(p,161)だと、アイクは指摘します。

 “多くの人は、自分の願う通りに生きていないし、真実と思うことを率直に述べてもいない。この狂った隔離世界が依拠する「標準」から外れた考え方や生活様式を持てば、他の人々(両親、教師、友達、近所の人)がどう反応をするかと怯えている。そして、「出る杭は打たれる」と、俯いて口を閉ざしている。自らの本当の姿で生きておらず、自らの独自性や願望を表に出していない。”(p,161)

 「他の人がどう思うか気にするような人間のままの私であったなら、私が本に書いたり、講演で話しているような挑戦的で「奇妙」な内容を公表できただろうか」とアイクは自問し、「できはしない」と答えています(p,162)。

 「他人の反応を気にして、情報の一部を編集したり、大幅にカットしたりするだろう」(p,162)と続けています。

 しかし、人々の嘲笑にさらされたおかげで、彼を閉じ込めていた監獄の扉は開かれました。

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 そうして、彼は「真実をそのまま手加減なく伝える」ようになり、「もし人々が気に入らなければ、残念だが、それまでの話だ。他の考え方をしてもらえばよい。私にはどっちでもよいことである」(p,162)と、自らの立場を受け入れられるようになりました。

 「他の人がどう思うかを気にする」というのは、自分の行動を、他人が気に入るように調整することと共に、自分があることを発言・発信した時に、人々が気に入らないという反応をした時、それを個人的に受け止めて、意気消沈するという形でも起きます。

 それがひどくなると、自分の考えを受け入れない他人を罵倒したり、暴力的な圧力をかけたりするようになります。

 しかし、「他人がどう思うか、私にはどうでもいい」と、心底から思えるようになると、自分の行動を、他人の期待に沿うように調整することはなくなるのに加え、それが受け入れられなくても、歪曲されても、残念に感じるぐらいで、特に気にしないようになる、アイクはそう言うのです。

 例えば、枠珍についての信頼できる情報を誰かに伝えても、無反応だったり、「そんなことは新聞や主要メディアで言っていない」という反応が来たり、あるいは、枠珍を接種してしまったとしましょう。

 それは残念ですが、それらの反応は相手の問題であり、情報を伝えたあなたの責任ではないのです。
 
 実際、枠珍についての人々の反応については、そういう受け止め方に、なりつつあります。

 打ってほしくないとは思いますが、打ってしまう人を、強制的にどうこうできないのも現実であり、これは受け入れる以外にありません。

期待に応えても、何もいいことがないという気づき

 「他の人にどう思われるだろうか」という畏怖、私の場合は、「友人の誰それさんにどう思われるだろうか」「母や兄はどう思うだろうか」ということになるでしょうか。

 もし私がこれに屈するなら、それは、「心を根源意識から断絶させる監獄」「日常的に人類を隷属させている監獄」(p,161)に、逆戻りすることになります。

 このアイクの文章を読んだ時、思いました。

 「死ぬまで、他人がどう思うかを気にして、死ぬ間際になって『もっといろいろやっておけばよかった。他人の目なんて気にしなければよかった』なんて、言いたいのか?そんなのはまっぴらごめんだ」と。

“私が経験したような嘲笑を何年も経験すると、意気消沈して衰弱(ブレイクダウン)するか、他人の評価などどうでもよくなって大躍進(ブレイクスルー)するか、どっちかだ。「他の人に何て思われるだろう?」という羊小屋の檻を抜け出すことができる。”(p,162)

 思えば、2004年12月、当時の職場の先輩によるパワハラが原因で、首から下が動かなくなって、そこから何とか立ち直ろうとしていた時から、母の無理解を目の当たりにしました。

 母の期待に応えようとしても、結局、監獄の中に、より入り込む結果にしか、なりませんでした。

 また、親や周りの人などの「他人の期待」に応えようと、どれほど努力しても、それは、往々にして、私の直感を裏切るものであり、大抵、自分を困った立場に追い込むか、自分を苦しくさせるか、良好な人間関係を壊すものになりました。

 期待に応えても、何のいいこともないのです。

 いまや、監獄から抜けて、大躍進(ブレイクスルー)する時です。

 実際、他人の評価、母や兄や友人たちの評価が、どうでもよくなってきています。

 親だけでなく、「彼は一体、どうしてしまったのか。トランプが今も大統領だとか、温暖化が嘘だとか、ベーシックインカムが導入されるとか、567は茶番だとか。何を言っているのか」と思っている友人や、教会の人もいるでしょう。

 でも、そんなことは全くどうでもいいのです。
 
 ある人のtweetで見ましたが、波動が高くなると、「好き・嫌い」から「好き・どうでもいい」に変化するそうです。

 実際、「好き・どうでもいい」になっていて、「嫌い」が一体どういう感覚だったのかが、わからなくなっています。

 母の無理解・視野の狭さ・嘲笑を、私が嫌っている間は、たとえ物理的に離れることができたとしても、根本的な問題解決にはならないでしょう。

 「母を変えることはできないし、変わることも期待できないし、私が嫌がることをやめてくれそうにもないが、どうでもいい」と思えたら、必要なことは起こってくるでしょう。

 この家に生まれて、様々な無理解を経験することで、私は共感能力・理解力、視野を拡大することを学んでこられました。

 常に、理解・共感をもって関わってもらえていたら、私は今ほどの、理解力・視野の広さ・共感能力を持つことはできなかったかもしれません。

 それが、この家族という関係が持つ、私にとっての意味なのかもしれません。

あなたのハートが直感で伝えることに耳傾けよ

 最後に、次のアイクの言葉を引用して、この記事を終わります。

 あなたの心(ハート)が直感で伝えることに従っていってください。

 あなたにとっての最善は、あなただけが、知っています。

 “我々は、「特別」になる必要はない。もともと「特別」なのだから、それに気付けばよいだけだ。草の葉、風の動き、鷲の飛翔、全て特別だ。必要なのは、嘲笑され、追い詰められ、非難され、恐怖に突き落とされて、根源意識との接続を断念し、心(マインド)の支配に身を委ねるのを拒否することだけだ。
 あなたの心(ハート)が直感で伝えることに従うのが良い。それが根源意識の言葉であり、「静かな声(サイレント・ボイス)」である。それを追っていけば、冒険が始まる。”(p,177-178)





 



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