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人は何のために文章を書くのか

日本に帰ってきて3か月が過ぎた。

戻ってきたばかりの頃は毎日のように書いていたこのnoteだが、このところ身の回りの変化に忙殺されるうちに書く頻度は減った。

文章というのは不思議なもので、書けるときはポンポンと書けるが、書けない時は全然書けない、あるいは書く気にならないということがある。ブログの類に挑戦したことがある方には共感する方もいるのではないだろうか。

折角なので、今回は「人は何のために書くのか」について自分の考えを整理してみたい。

書くことは「自分の思考と感情のコントロール」である 

「書くことで人は確かになる」といったのはベンジャミン・フランクリンだと記憶している。(残念ながら調べても出てこないので出典不明)

ものを書くためには、自分の中にある概念に適切な言葉を見つけて当てはめるという「言語化」という行為をする必要がある。その際に、 自分の中の言語データベースを検索し、頭の中にある概念にマッチする言葉を探して行ったり来たりして、最終的には何らかの言葉を選択する。

”結晶化”という表現をすることもあるが、フワフワしていたものに形を与える、文章を書くとはそんな行為だ。そうした 言語化の過程で自分の思考はより明晰化されるのである。つまり、単に頭の中だけで考えているよりは、モノを書きながら考えたほうが思考はハッキリする。

また、書くことは自分の感情をコントロールする効果もある。イライラしたり激しい怒りを覚えた場合は、自分がなぜイライラするのかを紙に書いてみると良い。書くことで、そのイライラが徐々に消えていく。

これは、よく言われるように、脳の中で感情を取り扱う部位と、言語を取り扱う部位が異なることから起こる。文章を書くプロセスの中で、感情が思考に転換され、感情そのものは落ち着いていく。日記を書く習慣のある人にはセルフコントールがうまい人が多いと思っているが、そうしたある種の脳トレーニングを普段からしているからではないか。

書くことは「自己救済」である

幻冬舎の見城社長は「書くことは自己救済だ」と言った。

彼は、悩める著名人に本を書くことを勧めて、数多くのベストセラーを出し続けた。 郷ひろみが離婚しようか悩んでいるときに、見城社長は「ひろみ、それ本にしないか」と持ち掛けて「ダディ」というベストセラーが生まれた、と以前回顧録に書いていた。

「自分の書いた文章を世に出す」ということは、ある意味で「手放し」であると言える。人は、自分の考えや気持ちを世に出すことによって、自分の中での葛藤を断ち切るのだ。本でなくても、ブログやnoteでも基本的には同じことである。

人間というのは、どこまでも不完全な生き物である。しかし文章という形でアウトプットするためには、不完全だろうが生煮えだろうが、どこかで「完了」させなくてはいけない。自分の中で完了というけじめをつける行為、それが書くという行為に収斂されるのだ。

書くことは「ギフト」である


最近、2冊の本を読んだ。1冊は、瀧本哲史さんの「伝説の東大講義」と呼ばれる本。もう1冊は森岡毅さんの「苦しかった時の話をしようか」である。いずれも、未来を生きる若者のために書かれたメッセージとしての文章だったように思う。

瀧本さんの文章の中に「自燈明(じとうみょう)」ということばが紹介されていた。

ブッダが亡くなるとき、弟子たちが「私たちはこれからどうすればよいのでしょう」と尋ねる。ブッダは「私が死んだら、自分で考えて自分で決めろ。大事なことはすべて教えた」と答えたそうだ。つまり、人生とはいつか自分で明かりを燈して生きていかなくてはいけない、ということだ。

しかし、先人の遺してくれた教えは、先人が死んでもそこに存在し続ける。ある意味でその教えを松明(たいまつ)のように使いながら、残された人たちは自分たちの道を照らして生きていくのではないか。

人は、人生を二度生きることはできない。しかし、自分自身の考えを後世に手渡し、それを使って後世の人々がより良い人生を生きていく。それにより社会を良くしていく、思いを託すことはできる。 文章を残すと言うことは、そうしたバトンを渡すという意味もあり、後を継ぐ人へのギフト=贈り物ともいえるのではないだろうか。

最近、自分にも不思議と若い人からのコンタクトが多い。正直、自分もまだ発展途上という気持ちもあるが、一方で、自分が次の世代にどのように役に立っていけるかについても、もっと意識していきたいと思っている。そんな中で、瀧本さんや森岡さんのスタンスはとても共感できるものだった。

自分のためにだけでなく、次世代のためのギフトとしても、やっぱり頑張って文章を書いていこうと心に誓う、今日この頃です。


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