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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】哀しみの終わる時(8)

杉本はそそくさと身支度を整え、騒ぎ散らしている母を尻目に家を出た。そして駅に向かいながら、神崎にSOSを発信した。

「そうですか。しかし、それが認知症という病気の特徴なのです。とにもかくにも、今日明日の二日間で話を前に進めましょう」

当たり前の話だろうが、自分の話にも一切動揺せずに諭すような神崎の口ぶりに安堵する。約束した区役所のロビーで合流し、介護保険課に出向く。要介護認定の申請書をその場でもらい、その場で記入する。週明けには入院する予定であることを伝え、可能な限り、ケアマネジャーによる聞き取り調査を早急にセットとてほしいと依頼する。

要介護度が決定されるまでに、聞き取り調査に加え、主治医意見書の取得も必要なので、3週間は覚悟してほしいとのことだったが、認定審査中に発生した介護費用についても遡及して処理することが可能だとの説明を受けホッとする。

限度額認定の手続きは、介護費用限度額は要介護度が決定してからになるため、後期高齢者保健の限度額認定だけを済ませた。


さて、いよいよ、これからが本日のメインイベントだ。自宅に戻って母親をピックアップし、神崎ともども、母を連れて郵便局とふたつの銀行を巡らねばならないのだ。杉本の母親は、ゆうちょ銀行の他にふたつの都銀に預金口座があることがわかっていた。

杉本がいったんは母親から預かった通帳を調べると、いずれの金融機関にも定期預金口座があることがわかった。神崎のアドバイスによって、すべての定期預金を普通口座に移管することが本日の作業であった。普通預金にさえしてしまえば、杉本が母親の口座から自由にお金を引き出すことができるからだ。前回のカウンセリング時に、母親の言質は取得済みである。とは言え、やはり、金融機関の窓口には、口座名義人本人が出向かねばならない。また、その場で、母がまた変貌しやしないかという不安を払拭できずにいる杉本だった。

今朝がたの母の荒れようから不安いっぱいだった杉本だが、玄関のチャイムを鳴らした時、家の中から「はぁ~い、どなた?」という母の明るい声が聞こえたとき、ああ、普通の状態に戻っているなと確信して胸をなでおろした。

「あら、武史。こんな早い時間に仕事はどうしたの?」と訊ねながら、後ろにいる神崎を見つけて愛想のいい声を発するのだった。

「まぁ!この間はどうもお世話になりました。ええっと、ほら、どなただったかしら。もういやよねぇ、すぐ忘れちゃってぇ。武史のお友だちのぉ・・・ねぇ」
「はい。神崎です。前回はたいへん長居してしまって」
「そうよね。神崎さん、神崎さん。どこかに書いておかなくちゃねぇ」

母の豹変ぶりに、杉本は認知症という病の恐ろしさを覚えずにはいられなかった。

「前回お邪魔した時に、今日の午後に、3人で一緒に銀行を回りましょうってお話したんですけど、お母さん、覚えてらっしゃいますかぁ?」

神崎の問いかけに、母親は思い出したように掌を打って言った。

「あらぁ、私ったらイヤだ。そんなお話、してましたよねぇ~。そうでした、そうでした。ちょっと急いでお支度しますね。ちょっと武史、コーヒーでも入れて差しあげて! ねぇ~、男の子はなかなか気がつかなくってねぇ。すぐに着替えてきますから、ちょっと待っててくださいね」

その様子は、何かバラエティ番組のコントを観ているかのような気分にさせるほどで、杉本は妙な気持ちになった。

「お気持ちはわかります。でも、逆の状態でなくて何よりです。ここはおふたりのためにも、粛々と前に進みましょう」

神崎のシナリオは、きわめて簡単なものだった。本人のもの忘れが激しくなってきており、近々入院や施設について検討すべき時期が可能性として来そうである。いつそうなっても円滑に資金を引き出すことができるように、定期を解約して普通口座に移しておきたい…。

ふたつの都銀は、いずれも杉本の母親が、「泥棒に入られた」と何度も駆け込んだ実績があったため、それが当然であるかのように、手続きはスムーズに進んだ。銀行の担当課長は気の毒そうな様子で杉本親子を眺めていた。

杉本の親友で社会福祉士だと名乗る神崎とは、銀行側としても問題視している、認知症になってしまった預金者の口座の取り扱いにかかるトラブルについてあれこれと話に花を咲かせていた。

さいごに出向いたゆうちょ銀行では、杉本の母親は30分ほど意思確認のための聞き取りをされることになった。が、神崎によれば認知症の人にはよくあることらしいが、役所などの公的機関やや金融機関では、意識的に健常者ぶりを誇示するようなところがあるという。

その言葉通り、母親はしっかりと受け答えし、将来的な備えのために定期を解約して普通口座に移し替えておくのだと見事な話しっぷりだったから、杉本は唖然とするしかなかった。

「いやあ、一日ですべて片づいて良かったです」

帰り道で神崎にそう言われたとき、杉本はハトが豆鉄砲を喰らったかのような表情だったと思う。

「いやあ、なんか、あまりにも呆気なくいろいろなことが済んでしまって、ちょっと驚いているんですよね」
「でしょうねぇ。どんなタイミングで何をしておけばいいのか。それさえ洗い出せてしまえば、あとはルーティンだけですから。

それにしても、お母さんが完全なる認知症になってしまっていなくてよかったです。普通の状態の時でないと、こんなに簡単にはいきませんからね。
それと、お母さんの、対外的にはとくにしっかりとしているところ。おそらく元々の性格なのでしょうね。人前ではしっかりと気丈に振る舞うようなところがあるのだと思います。それが良い方向に作用しました。

さきほどの通帳と印鑑類の一式。今後は息子さんがキチンと管理をするといった主旨の文書を作ってきましたから、家に戻ったらおふたりに署名していただきます。で、一通ずつ保管しておくようにしましょう。

あと、今後のリスク管理という意味で、やりとりはすべて録音させていただきますのでご理解ください」

神崎は杉本の自宅に戻るや、親子を前にしてその日に手続きした内容を改めて整理し、今後は母親の通帳・印鑑類の一式をひとり息子である武史が管理するよう提言した。

母親は、「それは助かるわ。どっちにしろ、私のものは全部この子にいくものですからね。早めにそうしておいたほうが安心です」と快諾。あっさりと文書にも記名捺印をし、対象となる通帳と印鑑、そしてカードを照合する。カードには付箋が貼ってあり、ごていねいに暗証番号まで記されていた。それは杉本の誕生日であった。

杉本の母親が、「武史。それじゃあ、しっかり頼むわよ」と言いながら、それらをセカンドバッグに納め、杉本に差し出した。そこまでのやりとりを録音し、神崎は席を立った。

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