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社会福祉士のケース記録(5)

家族が要介護になったときに、労働者が介護のために3回まで、通算93日まで休業できる介護休業制度。労働者に認められた権利だが、いざ実際に利用するとなると一筋縄ではいかないことも多い。介護の問題は、実際に携わった経験がない者には実感が湧かず、自分事として考えらない上司もいるためだ。しかしこれは誰の身にも高い確率で起こることであり、少子高齢化が進む日本では今後どんどん介護休業制度の申請者が増えてくるはずだ。都銀で総合職を務める田代さん(男性42歳、仮名)のケースを通して、現在の介護休業制度の落とし穴について考える。

それは、一本の電話から始まった

田代さんはある都銀で、法人担当の花形・上場企業の担当をしている。最近では業績好調で融資を必要としない企業が多いため、事業展開や業務改革などのコンサルティング業務が主な活動となっていた。年明けからは産業用コネクタメーカーの営業力強化プロジェクトに関わりながら、かなりの規模の融資提案につなげるべく、一意専心の日々を送っていた。

そんなさなか、母親からの携帯電話で父親の不可解な言動を知ったのは、桜の花が散り始めた頃だった。一人息子に心配をかけぬよう気遣う様子を察知した田代さんは、すぐにでも実家に飛んでいきたいと思いつつ、支店の命運を握るビッグプロジェクトを離れるわけにもいかず、親の顔を見に行く機会を作れずにいた。そして、ようやく実家に戻ったゴールデンウイーク。夜中に台所にしゃがみこんで、冷蔵庫の中のものを手当たり次第にむさぼる父親の異常な姿を目の当たりにしたのだった。

母親の話では、年明け頃から外出先ではぐれることが当たり前となり、家の中では連日連夜、自室の整理整頓や書類探しを繰り返しているという。時として母親のことを認識できなくなったり、叫びながら大暴れしたりといった具合である。

なぜか田代さんにだけは温厚に相対する父親を説得して、大学時代の友人である医師に診てもらうと、「典型的なアルツハイマー。過激な言動は、認知症からくる夜間せん妄。じきに徘徊(はいかい)や暴力も出てくるだろうから、母親のリスクを減らすためにも施設を探し始めてはどうか」との診断だった。

「少し様子を見よう」が認知症のタブー

アルツハイマーと聞いた母親は相当ショックを受けたようだが、「状況は分かったけれど、もう少しだけ父さんと二人で頑張ってみる」と言って、心配する田代さんを押し切った。この判断が、後に田代さんを窮地に追い込むことになる。それ以降、通勤中と言わず会議中と言わず、母親からの携帯電話が頻繁に鳴るようになったのだ。

梅雨頃には、仕事中に時間を捻出しては介護保険の事務手続きをしたり、午前中を半休にして父親を病院に連れて行ったり、有給休暇を取得して母親と施設を探したりせざるを得なくなり、少なからず仕事への支障が加速し始めた。

夏のある日、母親が意識を失い救急搬送される事態に。検査結果に異常は見られず、過労であろうとのことだったが、退院の際、父親と二人きりの日常に戻ることへの恐れを口にした母の様子を見て、田代さんは「限界だな。このままでは両親が共倒れになる」と感じたという。

先輩社員からすすめられた介護休業取得

翌日、外回りの途中に本社の人事部門を訪れた田代さんは、入行以来お世話になっていた先輩に事情を話した。労務担当の彼は、田代さんに介護休業を申請するよう勧めてきた。

「実はオレ、うちの会社の介護休業取得第1号なのよ。当時は上司からいろいろネガティブなことも言われたけど、もう時代は変わってるから。迷うことないよ、一人っ子なんだろ? 93日間だけ仕事を完全に離れて、親父さんをしかるべき施設に入れて落ち着かせないと、おふくろさんがヤバいことになっちゃうから。認知症を軽く見ちゃいけないよ」

ところが、いざ職場の上司に相談してみたら、帰ってきたのは予想外の言葉だった。介護休業制度について詳細を教えてもらった田代さんは、その2日後、直属の上司に相談してみた。抱えている案件のことが気がかりだったが、プロジェクトが佳境を迎えるのは11月と見込んでいたため、7~9月の3カ月間で集中して父親の問題を解決してしまおうと決断したのだった。ところが、直属の上司の言葉は、田代さんが予想だにしないものだった。

「ここ最近、半休に全休、それに早上がり(定時退社のこと)が多い気がしてたんですよね。外出したら戻りがやけに遅いし……。何かあるのかなぁとは思ってたんです。私にだけは本当のことを言ってほしいんですが、本当に介護なんですか、休みがちの理由は?」

あまりにも意外だったので、田代さんはあぜんとした表情を隠せずにいた。

「いや、気を悪くしないでくださいね。管理監督する立場なので、確認しておかなきゃいけないものですから。勤務時間中に、明らかにプライベートだと分かる電話が多いですよね。あんな不自然にヒソヒソ話をされると、周りも妙なことを勘繰ってしまうものです。田代さんだって、もうベテランの域に入ってるんですから、仕事は集中していただかないと……」

田代さんは上司を遮るように言葉を放った。

「お言葉ですが、仕事はきちんとやっています。現在の案件が当行に与える影響の大きさも重々理解しています。一方で、父親の病気のために母親が追い込まれています。私は一人っ子なので、私が何とかするしかありません。幸い、客先も夏休みの時期ですし、9月いっぱいまでは営業職のヒアリングとそのまとめ作業です。チームメンバーとは、電話やZOOMでコミュニケーションを取っていれば問題ないと思います。年末にきちんと成果を出すためにも、両親の問題は今のうちに集中して片づけてしまいたいんです。なので、本当に無理勝手を言いますが、介護休業を取得させてください。お願いします!」

未経験者には理解できない介護の話

田代さんの言葉を腕組みしながら聴いていた上司が、フーッとひとつ息を吐いて口を開く。

「そうですか……。介護休業制度は法律で定められたものですから、行員にとっては当然の権利です。でも、何事にも建前と本音がある。分かりますよねぇ。当行の今期にとって極めて大事なこの時期に、プロジェクトリーダーが不在になる。大変なことですよ。だいたい、客先には何と言うんですか? 田代は3カ月、介護休業中だと? 先方の常務はどう思うでしょうかねぇ。

お母さんが大変なのは理解できますが、だから介護保険制度があって、ケアマネジャーという専門職の人がサポートしてくれるんじゃないですか? 丸々3カ月休まなくとも、最悪、どうにもならないときだけ有給で対応すれば、やりようはあるんじゃないですか?」

田代さんは、上司に現状を理解してもらおうと言葉を尽くした。父親の普通ではない行動が収まってからでないと施設には入所させられないこと。問題行動をなくすための入院治療を受け入れてくれる病院がなかなか確保できないこと。そうしている間にも一緒に暮らす母親が暴力を振るわれたり、徘徊した父親を探すために走り回ったり、そんなことがほぼ毎日繰り返されていること…。が、上司の返事は田代さんの苦悩に寄り添うものではなかった。

「田代さんは、法人担当の総合職。それも重要顧客を担当するチームのリーダーです。人事評価上、影響がないとは言えませんよ。それでもいいんですか? いいとおっしゃるなら、これ以上、私からお話しすることはありません」

途中から目を閉じて聞いていた田代さんは、上司の言葉が終わるのを待って、「申し訳ありません。明日、手続きをさせていただきます」と言って、一礼して席を立った。

介護休業を取得しても、解決できないことがある

その後、田代さんは知人の紹介で当事務所のことを知り、どうしても見つけられなかった入院先確保を依頼してきた。半月後には父親を東京郊外にある急性期の精神病院に入院させ、問題行動を緩和した上で10月には退院させて、その後は老人保健施設での療養生活に入ることが決まっている。田代さんの母親も含めいろいろな話を交わす中で、父親名義の財産の扱いについてもお手伝いさせていただいている。

田代さんは言う。

「上司の反対を押し切って介護休業を取ったものの、医療機関や介護事業者との折衝は、骨の折れることばかりでした。あの世界特有のお作法や言葉があって、門外漢にはとても無理。『どんな状態でも受け入れOK』と言ってくれた施設も、数日後には『うちでは無理です』と退所を迫ってくる。入院治療についても、当院は慢性期だからとか、満床だとか、コロナで病棟閉鎖中だとかで、とにかく受診すらさせてくれないんですからね」

仕事の今後については、どう思っているのだろうか。

「プロジェクトメンバーとは週に数回ZOOMで情報共有できていたので、仕事に支障はなかったです。まぁ、これは違法なんでしょうけど(笑)。現実問題として、介護休業中だからといって、仕事を完全に遮断するなんてできっこありませんからね。10月半ばには職場復帰しますが、上司のあの調子からすると評価は下がるだろうし、たぶん来期は異動になると踏んでます。転勤を伴う可能性も大ですね。入行以来、実績ベースで、3年もしくは4年ごとに転々としてきましたから、もう慣れっこです」

企業に求められる、親の介護のことで職場を離れなくてもいい労務インフラ

介護休暇や介護休業の制度をきちんと準備している企業は多いが、田代さんのケースのように、本社の人事労務部門と現場部門では、介護休業の取得について温度差がある場合が多い。特にノルマが課せられる営業系の現場では、上司に介護経験がない場合、すんなりといかない傾向が多いようだ。また、介護休業を取得しても、給付金(1日換算賃金の約67%)をもらえる93日間では問題解決に至らないことも多い。問題行動を伴う認知症の場合は特にそうだ。

親の介護にどこまで関与したいかは個々の価値観や事情によって異なるが、親の介護問題は、ほぼすべての現役世代に起こる。まだ社員が介護休業を取ったことがないという企業でも、親に何かがあったときに社員が職場を離れずに済む労務インフラの整備は急務だ。これからは社員と家族を守る会社こそが、有能な人材に選ばれる時代になるはずだ。


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