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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】哀しみの終わる時(7)

神崎による杉本の母親のカウンセリングは内観療法をベースにしたイメージエクササイズで、結局、1時間半ほどを要した。長き人生において深い縁で繋がれたと感じる5人をピックアップし、それぞれに対してに感謝や謝罪のメッセージを語った後、神崎の合図で、母が目を開いた。その瞳はやはり涙で濡れていた。

「お母さん、お疲れ様でした。ご気分はどうですか?」

涙をしゃくりあげながら母が答える。

「なんか…、こう不思議な気持ちがします。胸の中のいろんなしがらみが消えていくような、胸のつかえが取れるような…」
「いやな気分ではないですか?」
「はい。スッキリして、なんか軽くなったような気分です」
「そうですか。良かったです」
「5番目に、実のお父さんのお名前が出てきたのですが、あのなかで、遺産分割の時にいろいろあった…というくだりがあったのですが…差し支えなければ教えていただけませんか?」

「ああ、そんなこと言いましたですかねぇ。実は、父が死ぬ前に、私を含めて4人の子どもと母が呼ばれましてね、女の子ふたりは嫁に出たのだから、遺産は母と男の子ふたりにやるつもりだからって、遺産相続放棄の書類に判を押すように言われまして…。

あの当時は世間知らずで、父に言われるままに放棄しちゃったんですよねぇ。結果的には、あのことがきっかけで、男兄弟とは疎遠になっちゃって。
かなりの金額があったはずなんで、私が軽はずみに判なんかつかなきゃ、主人も武史も、もうちょっと暮らし向きがよくなったんじゃないかって…ずぅ~と心のどこかに恨めしいような気持ちがあったんですよねぇ」

杉本は初耳の話だった。母方の祖父は、たしか武史が小学校3年生の時に亡くなったはずだ。

「そうでしたか。イヤなお話を思い出させていしまったかもしれません。申し訳ありません」

後で神崎に聞いたところでは、この一件が、もの盗られ妄想に繋がってきている可能性が高いということだった。認知症の症状の出方はさまざまだが、「お金を盗られた」という言動の大元の原因は、やはりお金に絡んでいる場合が多いという。そして、哀しい話ではあるが、いちばん身近にいる人物が疑われてしまうということも。

その後、神崎は、「お母さんに提案したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」と切り出した。

「そんなにまで感謝している武史さんの身に、この先、厄介なことが起きないようにするためにも、お母さんがしっかりと意思表示できているうちに準備をしておいたほうが望ましいことがあると思うんですよねぇ」

神崎は、いくつかの事例を引き合いに出しながら母親に提言したのだった。ついでに触れるならば、その際のやりとりは、すべてボイスレコーダーに録音しながら。


こうして、たった一日のうちに、もの忘れ外来受診、入院の段取り、要介護認定、医療と介護の限度額認定、定期預金の普通預金への口座移管について、杉本は母親の言質を取ることができたのである。

さすがに疲れたのだろう。その晩は、夜中の整理整頓や、「泥棒に入られた」と言って息子の部屋に押し掛けることはなかったが、一夜明けると、別人格の母が、息子の目覚めを待っていた。

「ちょっとアンタに訊きたいことがあるんだけどね」
「なにさ?」
「アンタ、あたしのハンドバッグ知らない? 通帳とか印鑑とかみんな入ってるんだけど」

杉本はとっさに思った。昨日、かなりのところまで作業を進めておいて本当に良かったと。

「本当に知らないんだろうね?」
「ああ。知らないよ」
「いやあ、困った。全財産を持って行かれた。これから警察に電話しなきゃ」
「・・・」
「困っちゃったねぇ。アンタも一緒に来てくれるでしょ?」

その日は、朝から神崎と区役所に出向いたのち、午後には母親も連れだって金融機関を回ることになっていた。

「いや、今日は大事な仕事が入っててさ」

言いかけた息子に母親が牙をむく。

「アンタ、何のんびりしたこと言ってんのよ! 全財産が盗まれたって言うのに、よくそんな落ち着いていられるわねぇ。どういうこと? アンタのことを疑いたくなるわね、まったく」

またか…。

「勘弁してくれよ、もう。昨日、神崎さんがいる時に、置き忘れがひどくなってきたからってオレに預けたんだろうが!」
「なにそれ? アンタに預けたって? あたしは知らない。そんなことするわけない。アンタのこと、そこまで信用してないからね、悪いけど」
「もういいよ」
「何がもういいだ。よくなんかないよ。返してちょうだい。アタシが血のにじむような思いで貯めたお金だ。いますぐ返せ!」

杉本はいったん自室に戻り、昨日、母から預かったセカンドバッグを取り出し、母の待つ居間に戻る。

「ほら。これだよ。そんなふうに言うんだったら、自分でしっかりと管理してくれよ」

次の瞬間、鬼婆のような形相で母が言い放った。

「はぁ~っ。信じられないね。実の息子が母親のお金を持ち出すとはねぇ~。いゃあ、怖い怖い」

おぞましいまでの目つきで自分をにらみつけてくる母親に、ふだんの母親はもう宿っていなかった。神崎に相談に乗ってもらい、ある程度の見通しが立っていたから我慢できたものの、そうでなかったら、「こんなになってしまった母親など、もう死んでしまっても構わない」という悪魔のような感情が湧き立っていたに違いない・・・。

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