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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】父返る(8)

小田原と湯河原の物件は、いずれも地域で人気のある開業医が経営・運営するシニアアパートだった。診療所とは目の鼻の先で、どちらも院長自らがあいさつに顔を出してくれた。響介も母親も、明らかにこれまで見て回った物件よりも好感を持った。職員もみな笑顔で感じがいい。気候のせいもあるのだろう。冬でも東京より2度から3度は高いらしい。最終判断は、母親の言葉だった。

「大昔のことだけど、お父さんと湯河原に旅行に来たことがあるの。泊まった宿のすぐ近くに不動滝っていうちっちゃな滝があるんだけど。そこのお茶屋さんでね、竹で作った灯篭がいっぱい飾ってあって、灯りをともしてあったのよねぇ。とってもきれいでねぇ、たしかお父さん、3千円くらい出して買ってくれたんじゃなかったかしら。あれ、どこにしまっちゃったのかねぇ」

響介と神崎はしみじみと耳を傾ける。

「お父さんとまた行けるかもしれないわ。お母さん、小田原の女医さんも良かったけど、湯河原がいいわ。おじいちゃん先生だけど、なんかほのぼのしてるしね。温泉もあるし、お母さん、湯河原にまた来たいわ」

響介は神崎を見やり、会釈して、それから頭を下げた。

この選択に対して、響介も予想した通り、親族やご近所から反対されるは、叱責されるは、それはもう大変だった。特に、父方の親類、つまり、父の弟や妹からは、「両親を離れ離れに引き離すとは何と親不孝な」なぁんて罵られたりもした。

具体的なことは何もしてくれない人に限って、あれこれと好き勝手を言うものだと、響介は思った。そして、そんな人たちの雑音を遠ざけるためにも、いっそ東京を離れてしまったほうがいいという、そんな踏ん切りがついた瞬間でもあった。

こうして、響介の父は、その年の梅が咲き誇る頃、湯河原の医療法人が開設運営するシニアアパート(*現在でいう「サービス付き高齢者向け住宅」)に引っ越した。そこはアパートとは言え、医療・介護・食事・各種生活支援等を必要に応じて出前するという運営方式で、費用は一切合財で月額十七万円と安い!

温暖な気候と緩やかな時の流れのせいか、転居してまもなく、父の問題行動も落ち着いた。ゴールデンウイークには、母親が話していた不動滝茶屋に、車いすの父親も連れて竹灯篭のライトアップを観に出かけることもできた。

響介と母は、いつしか月一度の湯河原ツアーを心待ちにするようになっていた。それはそのまま、親子のこころの距離をちぢめるセレモニーの意味合いも兼ねていた。父の容態もすっかり落ち着き、それから3年半、最後の最期まで同所で暮らしたのである。

初めて認知症の兆候が表れてから約7年。唯一点、残念であったのは、さいごまで母のことも響介のことも思い出さぬまま息を引き取ったことだ。それが認知症という病気だとは知りながらも、心のどこかで奇跡を期待する気持ちがあったのだろう。母にとっては、月に一度父を見舞い、あれやこれや世話を焼きながらも、母のことを認識できない父を目の当たりにすることは、さぞやつらいことだっただろう。

逆に救いとなったのは、神崎の勧めに母が同意し、リビングウィルの手続きを取っていたこと。一切の延命治療を拒否することで、カラダにたくさんの管をされながら、頻繁に採血されたり、薬を注入されたり、そうしたつらい思いを父にさせなかったことだ。

その甲斐あって、臓器の自然な機能低下による静かで穏やかな最期を迎えることができた。そして、さいごの瞬間に、母も響介も父の手を取りながらこころで会話ができたのは、本当に正しい選択であったと思う。

響介は、火葬場の煙突からたなびく白い糸を眺めながら振り返る。父の死は、いろいろなことを改めて考える時間を与えてくれた。響介も、父が亡くなる少し前に49歳となり、俗にいう四苦八苦の入口に差し掛かった。

四苦、つまり「生老病死」について考えながら気づいたのは、昨今の異常とまでいえるような情勢の中において、戦争や殺人や事故や自殺ではなく、病気の延長線上で最期を迎えられるということは、人間にとって本来あるべき幸せな人生なのではないか…ということだ。そう考えると、父の死は理想的なものだったかも知れない。

妙なもので、今の響介には、絶えず父が傍にいてくれているのがよくわかる。これは実に不思議な感覚だ。父が湯河原に移ってからは、生前元気であった頃よりも、父と頻繁に接し、非常に身近に感じながら過ごしたものだった。

「肉体は滅びても魂は残る」

そういうことって本当にあるんだなぁ~と実感している、響介の今日この頃である。

(完)

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