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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】哀しみの終わる時(2)

一週間ほど前に、杉本がたまたま立ち読みした週刊誌に認知症の特集が出ていた。そこで解説コメントを出していたのが、いま目の前にいる神崎だった。神崎がやっている24時間対応の電話相談サービスの連絡先を書きとめておいた杉本が、仕事の合間を見て、意を決して電話したのが一昨日。それを受けて今日、神崎のオフィスに相談に来たというわけだった。

「可能な限りでいいですので、なるべく時系列に、何があったのかを教えてくださいますか?」

ここ2日、神崎のホームページや著書で情報を集めてみたのだが、偶然にも神崎が大学の同窓ということがわかり、思い切って悩みを打ち明ける気になったのだった。第一印象も悪くない。話しぶりにも好感が持てる。杉本は母のありのままを語りだした。

「はじめのうちは、母も歳を取ったんだな~くらいにしか思わなかったんです。ちょっとショックだなぁくらいにしか。そんな状況が数か月続きましてね。でも、4月になって、仕事中に私の携帯に母から電話があったんです。泥棒に入られたって」
「家に泥棒が入ったと…」
「はい。で、本当? 何か盗られたものは? そう訊くと、通帳と印鑑を全部やられたと。これから交番に行ってくるって言うんです。そりゃ大変だと、私も仕事を早退して帰宅したんです」
「それは気が気じゃないですよねぇ」
「夕方、家に帰って、おふくろ、大丈夫か? そんなふうに叫びながら居間に飛び込んでいったらですね…」
「一刻も早く状況を知りたいですものねぇ。血相を変えてお母さまのところへ飛び込んでいった…」
「はい。ところが、母はあっけらかんと言うんですよ。『あら、武史。どうしたんだい』って」
「そういうことですか…」
「ええ。あの日からです。泥棒が入ったとか、全部やられたとか、そんな電話がひっきりなしにかかってくるようになったのは」

神崎がゆっくりとした口調で言った。

「ご存知だとは思いますが、モノ盗られ妄想というやつでしょうねぇ、認知症の」
「はあ」
「頻度としてはどんなもんでしょう?」
「最初のうちは3日に一回程度だったのですが、ここ一ヶ月はほぼ毎日です。しかも、交番や銀行に駆け込むようにもなりました。おかげで、駅周辺では、いまやちょっとした有名人です。交番も銀行も、私の携帯に連絡してくるようになりました。また、お母さまが来ていると」
「それは大変ですねぇ。しかもお仕事中ですものねぇ」
「ええ。それとは別に、私の携帯にもじゃんじゃんかかってきます。仕事中は出られないこともあるじゃないですか。後で着信履歴を見ると、もうすごいことになってます。おふくろ・おふくろと、数分の間に何十回もですから、ちょっとゾッとするくらいです」
「お気持ちはよくわかります。典型的な認知症の中核症状ですね。ところで、もうお医者さんには診せました?」
「何度か連れていこうとはしたんですが、絶対にイヤだと言ってきかないんです。最近は別人のように怒り出すようになって、ちょっと手がつけられない状態です」
「お察しします。そんな時、息子さんはどうされるんですか?」
「いやあ、こんなこと言うと軽蔑されてしまうかもしれませんが…」
「そんなことありません。そうとう苦しんでらっしゃると思いますので」
「はあ」
「正直、そのような状態のお母さまと、よく何ヵ月もひとつ屋根の下で耐えてこられたなと驚いているくらいです」
「そう言ってもらえると、多少、救われる気がします」
「全部お話しください。変に取り繕われても、逆に適切なアドバイスができませんから」
「そうですよね。申し訳ないです」

神崎がうなづきながら、黙って微笑んでいた。

「週に2、3回くらいでしょうか。息子である私を疑って問い詰めるんですよね。アンタが盗ったんじゃないかって」
「そうですか」
「しかも、『アンタ』ですからね。信じられません。母があんな口を利くなんて」
「そんな時はどうするのですか?」
「最初は冷静になだめようとするんですが、母がエキサイトしてくるものですから、最後は私も感情的になってしまって…」
「でしょうねぇ。血を分けた肉親であればこそ、なおさらそうなってしまいますよねぇ」
「時には、夜中に私の部屋まで来ましてね。気配を感じて目を覚ますと、母が幽霊みたいな感じで、ボーッと座って、横になっている私の顔を見下ろしてるんです。『どうしたの!』と言うと、『武史、大変なことになった。ぜんぶ持って行かれた。警察に届けに行かなきゃ』って具合です」
「それは驚きますよねぇ」

神崎は杉本を観察しながら、しっかり者だった母親の変わりようと、そんな母を受けとめられずにいる自分への歯がゆさに困惑しきっている様子を察知した。相談者の胸の内から、非常ベルが鳴っているのが聞こえてくる。

「結構しんどくて…。藁をもすがる思いで電話してしまいました…」
「でも、お電話いただいて良かったと思います。本当であれば、おせち料理の頃にお目にかかれていれば、息子さんがここまで追い込まれることはなかったと思いますが…」

杉本がハッとしたように顔を上げた。

「追い込まれる…?」
「あっ、ごめんなさい。ここまでお話を伺っていて、私には『助けてくれ、もう限界だ』というSOSが聞こえてきたものですから」
「限界・・・。SOS・・・」

神崎がゆっくりと首を縦にくゆらせながらやさしく微笑んだ。

「わかったようなことを言って申し訳ないのですが、長年こんな仕事をしていると、何となくわかってくるんですよね。相談に来られる方たちの切羽詰まり具合が」
「・・・」
「哀しくて情けなくて、つらくてもどかしくて、もはやどうしていいのか考えることすらできない…。そんなところまできてしまっているのではありませんか?」
「・・・」
「これまでに、どなたかにご相談されたことは?」

数秒おいた後、かぶりを振る杉本の目が滲んだと思うと、間髪入れずに大粒の涙がこぼれ出した。かろうじてズポンのポケットから取り出したハンカチで涙をすくいとりながら、杉本が声をしぼる。

「母と言い争っていて、母が、気が狂ったように罵る姿を目の当たりにするうちに、こんな母など死んでしまえばいいと…。そう思っている自分に気づいたんです。私は…ひとでなしです」

ここまで言うと、杉本は嗚咽し、『すみません』と繰り返しながら、どうにも涙が止まらなくなった。

「気にすることないですよ。自分を産んで育ててくれたお母さまに対して、いくら別人になってしまったとは言え、そうした感情を抱いてしまうなんてとんでもない。自分が信じられない。許せない。情けない。そう感じて自分を呪いたくなるのも当然のことです。ここには、杉本さんと私のふたりだけです。思いっきり、お気の済むまで泣いてください。そうすることで、澱のようなネガティブな感情が洗い落とされるはずですから」

神崎はそう言うと、面談室のドアを少しだけ開けて、珈琲を持ってきてくれるよう、秘書の女性に目で合図をした。

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