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徒然なるままに書いただけ

きのうは久々に神保町のブックフェスに行ってきました。中学時代から古書店巡りが好きで、その流れでカレーやてんぷらやら餃子やら焼きトンやら、激うまのお店も知ることになって、かれこれ半世紀ちかく散策しています。

でも、50歳を過ぎた頃から人混みが苦手になってしまい、秋に開催されるブックフェスティバルとは疎遠になっていました。今年はたまたまお茶の水で所要があったため、帰りに道草したわけです。

毎度のことなのですが、案の定、露天の賑わいを割けるように特定の書店に入って、関心を持った特定の本を立ち読みしながら時間が経過していくことになりました。

今回は、永井荷風、谷崎潤一郎にボーヴォワールと、年齢に見合った作品を眺めながら二時間近くを過ごしました。もうお気づきかと思いますが、不謹慎ながら、『老いと性』がテーマになってしまった…(苦笑)。

ハマったやつを具体的にあげると、荷風は『断腸亭日乗』、谷崎は『瘋癲老人日記』、シモーヌは『老い』…。いゃあ、年を取ったんだなぁ、つくづく…です。
 
いろんな作家や学者が『老い』について書いたものを読むようになったのは、これまた50歳くらいからです。終活をスタートした時期でもあります。体力的限界を実感するようになったのもあの頃からです。仕事において、『終活は四捨五入百歳からはじめるべき』と提唱し続けてきたことと無関係ではないのかもしれません。
 
それまでは結構、人生を急ぎながら生きてきたところがありました。何と言うか、止まっていることが嫌いな性分だったのです。大学時代に『待たない、群れない、乱れない』(乱れない…は、『信じない』とすることもあります)を信条に掲げてきたくらいですから、仕事でも遊びでも恋愛でも、絶えず次のことを考えてばかりでした。せっかちだつたのでしょうかねぇ。なんか時間がもったいなくってしかたないようなところがありました。まぁ、今でも時々指摘されるのですが…(苦笑)。
 
話を戻すと、多くの本を読む中で、自分なりに『老い』を「老いるとは喪失の過程」と定義したのが38歳の時でした。外資系コンピューターメーカーを早期退職制度を使って辞めて、社会福祉士となって医療の世界に転身しました。あれからずっと、大勢の患者さんや地域のシニアたちを相手に、よろず相談や終活講座を行いながら病医院のブランディングに取り組んできたのです。まぁブランディングなんて言うと綺麗ごとでしかなくって、要は新患予備軍の囲い込み。コンピューターやシステム構築を売っていた営業が、悩み事や願い事を扱いながら円滑な老後を売るようになったわけです。
 
ただ、IBMさんの頃も百貨店業界を長く担当していたので、お客さん(百貨店の従業員)と一緒になって、上得意客のヒアリングをやってはシニア向けの催事を企画するみたいなことをやってましたので、結局は昔っからシニア相手に商売してきたことになります。
 
自分が四捨五入百世代(50歳~)となって、それまで口にしてきたことに魂が乗るようになったのを覚えています。本気になったというか、自分事として向き合ったというか、いわゆる終活を実践しながら、「そなえておかないと、マジヤバだよ」って心から訴えるようになりました。
 
人生の後半戦を生きる親の役割、子どもたちに負担をかけないための準備、この世に生まれてきた意味…。こうしたことを考えながら、少しでも、縁あって出会った人たちの役に立てるように、という想いがどんどん強くなったんですね。それはいま現在も続いています。
 
『老いるとは喪失の過程』と言いましたが、とくに昭和世代の男性の場合、定年(役職定年も含みます)というのが社会的な意味での『老い』を実感(痛感)させられるイベントだと思います。その次が孫の誕生?『おじいちゃん』と呼ばれることは、やはり『老い』を改めて自覚させられる瞬間です。
 
生理的にも衰えを痛感します(朝とか…ね)が、これはなかなか折り合いをつけるのがむずかしいですよね。情けないような気持ちをスルーするまでに、かなりの歳月を要しました。『養生訓』の貝原益軒は、歳をとったら接して漏らさず…なぁんて言いますが、この『老いと性』の問題は本当にむずかしいと思います。
 
私が男なので、男性についてしかわかりませんが、医学的には、生殖機能が失せても性欲は残ることがわかっているそうです。女性と違って、生殖機能の有無については自分ではわかりかねますが、性欲についてはよく理解できます。
 
例えば介護施設に入っている男性。スタッフに対するセクハラは、医療現場や介護現場のスタッフにとっては大きな問題になっています。当人に事情を聴きながら、多くのシニア男性が性欲を維持していることがわかります。で、きまって「相手が若くなきゃダメなんだ」と真顔で言うのです。ただ、『若い』の具体的な定義は人それぞれです。
 
回りくどくなりましたが、神保町のブックフェスで永井荷風や谷崎潤一郎の日記作品を選んでしまったのは、このあたりのことが動機になっていたのだと帰り路に気づいたわけです。シモーヌ・ド・ボーヴォワールはフランス人女性で、日本でいうと明治・対象・昭和を生きた哲学者であり作家です。彼女も含め、高齢者の恋愛は忌み嫌うべきものではないという価値観を持った人たちばかりです。私が若い時に特に影響を受けたゲーテもそうです。
 
でも令和となった現代において、彼らのような価値観も行動も、おそらく開けっぴろげにできるものではないでしょう。かつてスティグマの対象であった児童と障害者については、逆に性の問題は正面から対峙する社会になったように感じています。しかし、高齢者に限ってはちがいそうです。
 
何が言いたいのか、自分でもわからなくなってきましたが、老いる過程ではさまざまなものをなくしていきますが、それでも生涯自分の人生を全うしようと思ったら、社会接点は不可欠だということ。そして、その具体的な中身は仕事と恋愛なのではないか…。
 
神保町で立ち読みして考えたのはそういうことです。別に会社に勤めなくとも、自分が誰かの役に立てることを何かしらのかたちで実践し続けることで、きっとやりがいや生きがいを持つことができると思います。そしてさらに、すきな異性(LGBTQも可)がいることで、生きるよろこびを実感できるものではないでしょうか。ただ、この解決策がシニア向けの出会いサークルでいいとは、どうしても思えない…。なぜなら、出会いをつくるという最初の過程が、多くの男性にとってはいちばんワクワクウキウキするものだと思うからです。
 
ところが、飲食店のスタッフとか、デパートの店員さんとか、ちょっと感じのいい人を相手にあれやこれや話を続けていくと、だんだんと相手の視線に『もしかして、この人、認知症?』とか『この人、クレーマー?』とかいった気配を感じる場合があるものです。注察妄想(だれかに見張られたりしてるのではないかという妄想)に駆られるという友人もいます。店長とか売場マネージャーとかね。慎まないと…ですね。
 
まぁ、その意味でも、何かしらの仕事に携わっていた方がベターということは言えるでしょうかねぇ。ちなみに、病院時代にやっていた終活コミュニティーは、『生涯青春アカデミー』でした(笑)。
 
 
支離滅裂で申し訳ないです。日シリ第2戦で阪神タイガースが惨敗したせいか、悶々としてnoteに八つ当たりしちゃった感が拭えません…。おしまい。

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