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終活ブームにダマされるな

巷には、元気なうちからエンディングに向けた備えをしておこうというシニアたちにたかって、食い物にしようとする輩がいます。老いる世間は鬼ばかりで、一歩外へ出れば、鬼がうじゃうじゃいるということです。

巷では、ここ数年、終活ブームが花盛りです。関連する本も溢れています。ワイドショーやバラエティ番組に取り上げられることも多い話題です。テレビのみならず、ラジオ、雑誌にしても、終活をテーマに掲げさえすれば、それなりの反響を得ることができるといいます。

メディアから垂れ流される情報に踊らされて、安直に終活ブームに乗っかる人たちがたくさんいます。彼らは積極的にその手の本を買うことでしょう。テレビで紹介されれば、タイトルをメモ書きして本屋で注文する。ときに、地域の公民館で開催されている啓発講座にも顔を出す。

少子化の影響で学生数が足らず、経営がジリ貧の私立大学が、苦肉の策でオープンカレッジと称してシニアたちをけしかけるようになって久しいですが、かなりの金額を払って通学するシニアが大勢います。

学ぼうとする姿勢は現役学生の比ではありません。真剣そのものです。講師の話に大きくうなずき、そしてわかった気になり、満足して、連れ立った友人・知人たちと帰りがけにお茶して賑々しく会話を楽しんで、買い物をして帰路に着く頃には、老いに備える意識も知識もかなり薄れています。翌朝ともなれば、何ひとつ覚えてなどいません。そして、これではいけないと、また同じことを繰り返すのです。

だからこそ、終活ブームを煽る側の人たちにとっては美味しいということになります。ゴールがないビジネスというのはもっとも美味しい。同じネタを何回でも使いまわして、コストをかけずに収益を上げることができるからです。嵩にかかってシニアに寄ってたかってくるわけです。

もちろん、家の外に出て、自分の足で移動して、人と接して、楽しい時間を過ごすことには価値があるでしょう。老後の暮らしに潤いを与えてくれるという意味においては有効だと思います。しかし、こうしたことが本当の意味での「終活」になっているかというと、残念ながらちがうのではないか。これが私の持論です。
 
終活の本質はちがうところにあります。問題意識が高かろうが低かろうが、例え情報収集してせっせと勉強をしようが、いざという時には学んだことを活かせない。実践ができない。それが、悲しいかな、シニアの実態なのです。
 
●ある日突然、親(配偶者)ががんであることを告知された。
●ある日突然、親(配偶者)が倒れ、車いす状態になった。
●ある日突然、親(配偶者)の入院先病院から退院してくれと言われた。
●ある日突然、親(配偶者)の言動がおかしくなった。
●ある日突然、親(配偶者)を施設に入れなければならなくなった。

こうしたことは、元気な時にはなかなか考えないものですが、お金持ちもそうでない人も、誰しもが必ず出くわすことです。いくらたくさん本を読んで準備した気になっているシニアであっても、いざその時になると、おそらく自分では何もできない。動揺して、何をどうすればいいのか判断がつかない。行動に移せない。だれに何をどう伝えればいいのかがわからない。

そして、そんなとき、多くのシニアは子どもたちの携帯を鳴らしまくる。その頻度が高まるのと正比例して、親子関係が少しずつおかしくなっていきます。で、子どもを頼れなくなって、焦って慌てて藁をもすがる思いでババを引く。専門家もどきにダマされて、気づいた時には後の祭り……。そんなケースをイヤというほど見てきました。

結局、日頃からあれやこれやと勉強しているシニアであっても、いざとなれば動揺して、理解していたはずの万一の場合の対処法を脳内データベースから抽出することがかなわず、身動きできなくなってしまう確率が高いということです。

というのも、老後の諸問題というのはどれもかなり複雑で専門性が高いからです。IQの高い霞ヶ関の官僚たちが、一般大衆層には理解できないような難解な制度設計をしているためです。永田町や霞ヶ関の住人たちに有利になるように。いや、一般大衆には決して見破られることがないように……といったほうがいいかもしれません。

ましてや、それを勉強するシニアの側は記憶力が低下しているから記憶が定着しづらい。だから、いざ何かが起きてしまったとき、せっかく学んだ知識や情報を活かせない可能性が高いわけです。これが、20年間にわたって、シニアを対象とする24時間対応の電話相談サービスや、老い支度に係る啓発講座をやってきた私の実感なのです。

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