たまには夜(つれづれなるままに Part8)
断片が多すぎて書ききれないので久しぶりにつれづれと言葉をめぐらせよう。
たくさんの人とさまざまなことを話して少なくともこの心には何かが残り外側の世界にも何らかの影響を与えたと信じている。しかしそれが起こる過程にはもっとたくさんの奇跡的な断片が落とされ私はそれを全然満足なレベルで記述できない。だからそのような記述はあきらめて今思うことをつれづれと綴ることにする。語りきれない要素で時間は満たされており特に書く必要もなくそれでも何かを残しておきたいから思い出をそこに浮かべる。自らが救える範囲には限りがありむしろ何が何に救われているのか分からないがどうしても話さずにはおれないような衝動が渦巻いていてそれは何か自分をそこにいさせておくれと願わずにはいられない淋しさのような感情をにじませている。そうしてぼくたちは話し続け、物質を媒介にしてはみるものの、価値の体系に組み込まれた瞬間にぼくたちは心の在り方ばかりを見直す羽目になる。目の前のひとりとうまく分かり合えなかったと感じるだけで人は罪悪感を得て先達の残したものになぐさめられるばかりだ、今夜も信号は点滅を繰り返している。贅沢なこんなにも豊かな世界で人は簡単な承認をだけ求めつつも日々の生活に忙しいふりをしてそこに本気を出すことを忘れていく。そう、承認を得ないことは楽でもあり、必ずしも生存に愛は必要ないのではないかという疑問さえも忘れて、相手が聞きたいことだけを適当に供給することに適応していく。自分が今どこにいるのか何をしたいのか分からないと言ってみたところで焼き鳥を食べたいという気持ちがなくなるわけではなく、つまり元気でいること以外はする必要がなく、もしもそれがシステムによって要請されているのだと見抜けばいろんな悩みはないに等しいと理解でき、時間はかかってももっと赤ちゃんの状態に戻るための手がかりを得ることができる。生きていくということは基本的には難しくないはずで、それでもまだぼくらは完全に簡単にすることに成功していないからとにかく似たような人がどこかにいたなあと思いながら初めて会う人と話を始めていく。人間に対してしか結局は複雑な興味の持ち方はなく、人間以外に対してならもっと中立的な興味を持って触れ合えるけど意外とその時間を取れていないことを実感する。人間のことはうんざりだから別に無理して付き合うこともないのに飽きもせず横を歩いて通り過ぎていく身体を一瞥するだけで空の様子を見るのを妨げられてしまう。石を練り土を掘り水を流しぼくらは生まれることができたから、できるだけ平穏な毎日の中でたまには過激な表現をしてみたりもするが、大したことは起こらないから結局むかしのコンテンツを掘り起こしたりして自分の感受性の歴史性をもてあそぶくらいが関の山なのだ。その過程で浮かび上がる普遍的な感情こそがぼくたちを生かしており、それによって引き起こされる事件の限られたパターンが断片を貫くと感じられたときに時を超え共感することがたまに起こり、それくらいの感覚でまた明日へと希望をつなぐことができる。センサーが増えると普通に見えてももう少し彩り豊かな味わい妙な状況が存在しており共有できる人たちが周りに集まってくるからそれでいいのだと思う。説明はできないしする必要もないから、あなたに向けて今日もこうしてぼくの認識を文字に変換してみるだけのことだ。とにかくこれでいい。
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