見出し画像

五感の奥

人は人、自分は自分、という言葉を聞く。

人はなんとなく当たり前だと思うことに対して、深く考えない傾向がある。
だって、「そりゃそうだ」としかならないから。

けど、本当の意味で深く理解するのは難しい。

ちょっと話飛ぶけど、自分が不幸だとか、自分はダメなんだ、とか思ってしまう要因の大半は比較によって起きているって思ってる。
人は本能的に人と比べてちゃうのかもしれない。

原因が分かっているなら比較するのを辞めればいいじゃん?
となるけど、「そう思ってしまうから仕方ないじゃん!」となり、平行線。

難しいなー。

とりあえず、出来ること、やれることを整理してみる。

比較をしない手段をどこまで深く考えたか。
どこまで実践したか。
自分という人間の習性をとことん知って、その前提を元に自動的に良い方向に行くような仕組みを作る。

100のダメージがMAXとする。
ちまちま悩んで30のダメージ × 5年、10年 っていう人生。
血の滲むような勢いでいろいろ考えて、90のダメージ × 数ヶ月 っていう可能性。

どっちに賭けるか。

そもそも、本当の意味で幸せだな〜って感じるのはどんな時だろう。

人と比べて数字で上回っているとき?
その数字、もし時代が違ったらどうなんだろ?
経済力より武力が高い人が社会の立場が上な風潮だったら?

自分から近くもなくて、容易にコントロール出来もしないところで出来上がった価値観を元に何かを比べていたら、それはとても壊れやすいのが分かる。
自分じゃどうしようも出来ないことに振り回されてしまうから。

幸福は、矢印を内に向けることで分かる。
方法は、矢印を外に向けることで分かる。

全部をごちゃごちゃに混ぜてしまうと、難しくなる。
きっと、物事を切り分けて考えるのがポイント。

自分のことは自分で操縦出来るけど、世界のことはすぐに操縦できない。
何をやっているかも大事だけど、何を感じているかの方が重要。

時代が違っていたとしても、世界に自分1人だけだったとしても、人間が何かを感じるという構造は変わらない。

自分を振り返る、自分に潜っていく、自分を探す。
見つけたものは、良いも悪いも直視してちゃんと掴み取る。
感情的にダメージがあっても、事実として掴んで置いておく。

血の滲むような勢いでやる。
もしかしたら瞬間的に100のダメージを負うかもしれない。
本能が拒否するかもしれない。
それでも、中途半端なダメージを長期で負うよりも到達点は良い方向に行く可能性は高い。

結局、冒頭の言葉にはきっと省略された主語があって、それはたぶん、「幸せの感じ方」な気がする。

そんなの、外に探しに行っても見つからないわな〜、と。
最終的に内側から見つけるもの、っていう作りになってるから。

そこまで考えると、人は人、自分は自分というのも構造的にスッとくる。

そうなると、比較っていうのは手段でしかない、ってなる。
これは、ただただ事実・現実を見るための方法なだけ。
自分の価値や幸せを見つけるための方法じゃない。

目に見えない所に目を向ける。
耳で聴こえない所に耳を向ける。

本当に大事なものは、きっと五感の奥にあるんだろうなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?