心の両極
歌詞
朝焼けに隠れる夜の砂
光の棘が仄かに痛む
風が木の葉に会釈をひとつ
雫の帰省
水面が揺れる
願いひとつだけ
果てに送れたら
輝く影と墨色の月
白紙の地図が描く道
空に架かる夢の梯子まで
届けても
的の無い弓のよう
彼方で陰る雲のひとひら
離別の旅の始まりは
あの日にかけた鍵を壊して
離れても
揺られても
少しずつ
開く扉
波動の夜へ
メモ
思いもよらなかった反対のことを知ったり、なにかの逆を定義したりすることって、なんか自由な感じがして楽しい。
1次元の点が2次元、3次元… って感じで幅、高さ、奥行きが頭の中で増えてく感じ!
全く違うところと結びついたり、同じようなところにいると思っていたものが全然別のものだったり。
思考とか感性が自由なことって、すごく人間らしいなあって思ったり。
これがホントの人間味!
頭の中は、本来可能性だらけ。何を思っても、何を考えても、何も言われない。
けど、生きてる年数が増えてくると、せっかく自由な頭の中や心の中に、無意識に自ら蓋をしがち。
人が人の都合で決めたこととか、人が集まって出来上がった常識とか、人が集団になってできた輪とか。こういうのって本来人が生きるのに便利だから成り立ってきたのに、逆にそれに縛られてしまったり。
手段が目的になって、構造の順番が崩れてしまう…
できるだけ成り立ちの通りの順序で物事を捉えて、歪のない並びで構造を捉えると、それに付随して心もまっすぐ落ち着く。
優先度が整理されるから、時間が無いっていうことが無くなって、今が楽しい!
思考に付随して、心がしっくり来る状態になればもうけもの。
少なくとも自分の内側では。
そういえば、よくある話で
「結果ださなきゃ」
「思い出づくりをしよう」
みたいな話、言葉と意味をよーく考える。
結果、って何かが起こった後のことをそう呼んでるんだと思ってて。
未来になにかする理由が、過去のため、みたいな状態。
「今」はどこいったんだろう?
思い出、も、どっちかというと過去のことをそう呼んでると思ってる。
どこかへ行っても、行った事実を残さなきゃ!っていって、写真をたくさん撮る、みたいな行動。
未来になった時、過去を振り返るために、今ここにいる事実を残してる。
「現在」はどこいったんだろう?
個人的には、今この瞬間にそこで何かを感じてること自体が最重要だったりする。
未来になったら、そのときの今を楽しむために今は犠牲にしよう、というのもあるかもだけど、未来自体がそもそも現在の連続なだけで。
と、いうことは、未来になっても結局その時からみた未来のために今を犠牲にしつづけるだけになるような?(ややこしい)
そう思うと、物事の性質と概念・構造の捉え方を一致させるのって難しい。
誰しも個人個人の常識や当たり前があるし、全部の思考や行動に意識がいってるわけではないから。
ただ、出来たときはすごく楽。ほんとに大事なことなんて殆ど無いってのが分かるだけでも、全然違う。
未来とか過去はあくまで今を楽しむためのツール程度でしかなくて。
なんか、お金とかAIとかと似てる。
ただの手段だけど、目的になりがちな感じが。
けど、手段と目的を逆転させるのを意図してやれば、例えば単純作業とかを楽しめるかもだから、これすらも今を楽しむツールになる。
大事なのは、これ順序反対だな、とか矛盾してるな、っていうのを内側で理解してること自体なんだと思った。
頭の中を立体的にすることで、選択肢が増えて、そのなかのどのポジションを取りに行くか、みたいな。
というか、立体的になった時点で自動的に自分がどこに行きたいかが決まってくる、ていう感覚のほうが近いかも。
そうすると、今っていう点で生きてるつもりでも上下左右前後斜めに常に可能性の線ががくっついてくる。
好きに揺れて、好きに歩く。
まるで波のように生きる感じ。
まっすぐな、波。
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