自粛してるほうが気が楽な話

私は今大学生をやっていて、それこそいろいろな人との交流がありました。

サークルに所属したり(100人以上のサークルだからとにかく広い)、バイト先の人と話したり(2つ掛け持ちしがちです)、教員や授業内で話し合ったり。

本来であれば、そういった人との摩擦にさらされる日々を送っていました。

しかしこのコロナウイルスの広がりによる自粛が世界各地で要請され、世界は大きな変革と不安に襲われています。

それに対し私は、「コロナで自分のこれからの人生も大変になるのか」と心配をよそに、むしろ今までよりも気楽に生きている自分を発見することになりました。

なぜなのか、それは今までの生活がずいぶんと息苦しかったと思うのが自然で、自分の中の「当たり前」を見直すきっかけになりました。

サークルはアカペラサークルで、練習となれば三密の状態は避けられず、活動はほとんど自粛状態です。これまでほとんど毎日アカペラのことを考えていたような生活をしばらく送っていましたが、それはアカペラが「好きだから」だけではないということに気づかされました。好きなことができないことは、恐ろしく辛いことのはずなのに、今は気楽に生きているのですから。それ以上に今までのアカペラ生活は、「気を使って」「周りの目を気にして」熱中していたことでした。

自分の中で、「人と一緒にアカペラをするのは楽しいことで、なければいけない。」というような不本意な「当たり前」が出来ていました。サークル活動をほとんどしていない状態になってから、パートナー以外に話す人はほとんどいません。指導教員か、バイト先の人ぐらいです。何気ないときに、思い付きで連絡を取れるような相手はいません。私は今まで、「周りの人の機嫌を損なわない」ことを一番の条件に、多くのことを決定してきたのだと思いました。

そんなこんなで、私の自粛生活は、一般的な自粛生活とあまり変わらないものです。奨学金やバイトの収入も減っていないので、生活するには十分ですし、むしろ交際費が大幅に減ったので、かなり安心できるようになりました。そうした中でやることは、家の中で映画やアニメを見たり、ゲームをしたり、学生の本分に立ち返って勉強をしたり。授業も、無意識に周りの人の視線を気にしながら学校へ行き、授業中も周りの視線を注意して振舞っていました。そうしたことから逃れられる生活は、これまでの自分をむしろ開放しているような気がします。

このような状況下でセンシティブな話題をのんびりとつづっていますが、コロナの完全な収束が見えないこれからは、「メンタル」「マインド」といった内面が大事になるでしょう。そうした中で、この自粛によってもたらされたディストピア的な世界は、価値観の変革をもたらしています。これまでの日常が戻ることより、これまでよりもいい世界ができあがったらいいなと、希望をもって、今できることをやりたい。

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