2020 1002

私が死んだ後も「この世界」は続いていく。「私」不在の「この世界」はあり得るが、それが「いまのこの世界」と一致するのだろうか。そして全ての「いまのこの世界」が全て私の死因であり得る。世界の中にあるとは祈りであることと同義である。世界とともに祈るのではなく祈りであるということ。
(注釈 「私」であるのは、世界の手前に開かれる「観点/地点」のそれしかなさで、それの現実性〈現に〉に排中律を適用することで独我論を帰結することが可能になる。ここでの祈りというものと、それの関連を考えた。次に出てくる関係としての総体というのはこの問題と関連している。現実的なものは、例えば想像上のものと異なって、反作用的で変更不可能的である。例えば、特定のあるものがあるものとして現れる(〈現に〉である)タイミングは、選ぶというよりも受動的だ。わかりやすくいえば、自分が生き死ぬ時代は選べない。そういうものが関係の相対だろう。規定は、少しずつ遅れているのだなと気づいた。春と修羅にあるように、わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明だ)

因果とは、畢竟生命のことではあるまいか。もしそうだとすれば、生きているとは「いまのこの世界」にある「関係としての総体」となるだろう。生きていること、死ぬこと、それぞれに理由がなければ成立しない。ここで理由とは関係性である。関係性のうちの特殊のひとつが因果関係といえよう。では、どう特殊でそれはあるのか。
因果と言えるのは精子と卵子から私が生まれたこととそしてその私が死ぬことであろう。それがないならば時間もない(乱暴に言うと)が、その出来事に立ち会うという事態が考えられない(その場にいたけど忘れちゃったとかと異質であるような)だとすれば、それはどういうことなのだろうか。因果とは、つまるところ時間に関わっているだろうが。
(注釈 それがないならば時間はないというのはどういうことだろう)

しかし時間なしに因果はあり得るのか。因果があり得るとは何か。因果とは、気づきの再構成に対する解釈ではないか。時間とは、不在という仕方で幅を持った有限性のなかに共有されるものでなければならないのではないか。他者なしに時間はあり得るか。他者とは老いゆく存在であり、この世界にともにあるがその根拠がない、つまり常にいつかその関係性が失われ得るということだが。私は私の他者と言えるだろうか。世界とはなにだろうか。
可能な世界を自らが選択したことに対する信がないと出口のないパラノイアになるのではないだろうか。マイケルサンデルが恵まれた人が恩寵を云々というのをちらっと読んだが、むしろそういう予定説的なものが新自由主義と相性がいいんじゃないのと思った。
(注釈 予定説と新自由主義の相性は興味深いが、論証がないと理解できない)

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