色々な声 2

 ふーっと息を吐いた。そのとき、魂が腹から外へ吐き出されたような感じがした。
「どうしよう、困ったことになった」
という、焦燥感だけが身に覚えて残っている。ありありと思い出せる。その以前は何もない。行き止まりになっている
 行き止まりまで思い出してみると、その焦燥感に恐ろしさを予期して、まあ実際に今起こっていることでなくってよかったとは思える。でも同時にまた、もしあの感じがまたこの身に起こったら…という連想が、本当はそう欲望しているのだと言わんばかりにいつも頭に過ぎる。そうしてどうしてこの世界が、どういう接点でその感じと連絡しているのか、とんとわからなくなる。
 ふと、自分はアケミに向かって声を出した。するとアケミの声が返ってきた。ああ今日はアケミの誕生日だったのだった、とそのときに思った。

         ✳︎               ✳︎               ✳︎

「アケミちゃん お誕生日おめでとう」
蛍光灯の消えた部屋の中、そのアケミちゃんへのメッセージがあしらわれたチョコは、5本のろうそくに囲まれて照らされていました。他に見えるのは城壁みたいに敷き詰められたイチゴやフルーツ、そして、その色鮮やかなお人形さんです。お人形さんが置かれていたのは、たしかチョコプレートの背後の位置でした。
 ただ覚えているのはケーキの上にいたそのお人形さんがとても色鮮やかに装飾されていたこと。ぼんやりとした空間の中でそれはまるで一番星のように鮮明に美しく、絵本の世界みたいな見たこともない服を着て、全体はまるっとしたフォルムの、つるん、とした高級な卵、みたいな感じを受けました。男の子なのか女の子なのかの記憶がないのは、当時まだ自分が女であるという自覚が希薄だったからかもしれません。ただそのときそこに照らし出された鮮やかな造形に、私はどこまでも目線を奪われていなければならなかったのでした。そうしてじっと見つめていると、
「ハッピ・バースデイ・トゥ・ユー」
「ハッピ・バースデイ・トゥ・ユー」
と、色々な歌声が聞こえてきます。祖父母や親戚などの。そう、これは私の誕生日パーティ。年末年始の帰省ラッシュで母方の祖父母の家にいて、12月が自分の誕生日なのでケーキを用意してくれていたのでした。ケーキの上にいて私の視線をそこへと集めるお人形さんは砂糖菓子で出来たデコレーションで、そう煌びやかだったのは田舎特有の独特の豊かさなのかなと今となっては思います。私は息を、ふーっと吐きかけました。同時に頭上の蛍光灯に明かりが戻り、その間、お人形さんのきらめきだけが変わらずずっとそこに感じられました。

 生クリームが白く側面に、塗り込まれたみたいな端のスポンジの、フォークで突っつくと見え隠れする、まるで自己の存在と無関係に、自然の過程で襞が縒れた地面のようなそれを、半分くらい口に運んだら茶で流し込む。そうしてそのとき、離れたところに手で持って据えたお人形さんと、ふと目が合ったのでした。お人形さんのいるところのケーキを私の皿に取り分けてもらったのが、私はただじっと見つめ続けるのみで、お人形さんを砂糖菓子として食べることは一向できません。ついにケーキがなくなった取り皿の上にポツンと置かれたお人形さんは、なんだかひとりぼっちみたいに思えました。
「それも、早く食べちゃいなよ」
という周りの声がします。でもそんなことできないよ、と私は返します。そんなこんなで私はおばあちゃんに頼んで、最終的にはその日お人形さんをガラスのコップに入れて置いておいてもらうことにしたのでした(これまた綺麗な模様のコップでとても嬉しかったのを覚えています)。そうしてコップの中に改めて置き直されたお人形さんを、寝るときまで私はうっとりと眺めているのでした。
 しかし世の中美しいものばかりでもないのですかね。このお人形さんの顛末について語らなければならないようです。それは数日後の朝におばあちゃんから聞いた話なのですが、その日、突然、お人形さん不在で引っくり返された、例の模様のコップを水切り台の上に見出した私は、そのとき目を疑うと同時に耳も疑わなければなりませんでした。祖母によると、朝起きて台所を見ると、お人形さんの表面には蟻がたかっていて、そこからそこへとバラバラと蝕まれていき、そうしてそれらは蟻達の大群によりどこかへと運ばれていった、と言うのです。この話を聞いてもうわんわんと泣きました。涙がぽろぽろとあふれて、手でぬぐってもぬぐってもこぼれていきました。ちょっと、あんまりにもトラウマすぎます。 
 いまこの文章を阿鼻叫喚絶叫しながら書きましたので、だから至らぬところがあるかもしれません。いまや涙はちっとも出ませんが。

 私はそのあと小学校に入り、学校という世間で期待される、女の子である自覚を持つようになり、そしてそれは性の役割の意識へと変わっていきます。しかもあの頃は誰もがグラドルに憧れた時代です。お人形さんと箱庭の夢想は、イメビのセットのように背景へと、学校に通う中で沈み込んでゆくのでした。
 グラビア至上主義の世の中です、グラドルみたいになりなたくならないなら女じゃないし、グラビアみたいな女の中で腰を振って目の前のグラドルの中で一瞬(ひととき)に射精できないなら男でないと信じられていました。
 まあ全ての人がこうってことはないかもしれないけど、私はただ女の子として、萌えキャラみたいになれるよう自己陶冶を繰り返し、いつも「完全なグラビア体」になった自分を夢見ました。
 だから私は私が女は胸が大きい家系に生まれたことを、よく誇りに思いました。巨乳はグラビアの基本ですからね。実際、私の祖母は若いときにイメビに一度出たことがあるそうで、血のつながった身として嬉しいかぎりです。
 私の巨乳はグラビアみたいな、グラビア映えする巨乳だったから、“事務所”からの連絡が来ることもあります。男の人から声をかけられたとき、グラビアみたいな乳房の私の女性器の中でペニスが、射精されていくときいつもべちゃっとまとわりつくような、男、の視線を胸に感じることも多かった。
 でもそのたびに「完全なグラビア体」に近づいているのだと、私は信じるものです(完全性において 「グラビア」とは“事務所”によらない何かなのですから)。しかしその裏で粘膜と体液が交換されているような感じがするたびに、何か人間の中にあるグラビアじゃない要素が見えてくる気がして全てやめたくなるのですが、そんなときは呼吸を整えて目線を逸らしながらグラビアを見て、忘れるようにしています。境界を曖昧にすることは生きていくうえで重要ですね。そんなこんなで、その日もまた、私は、夢の中でイメビを見ていました。そうしていると母親の声がします。
「もう、アケミったら!早く起きないと遅刻するわよ!」
エプロンで縛られた乳袋が揺れるほどの強いトーン。彼女は声を張り上げ、私の動きは強張ります。私の母はなぜかアニメ乳。その影響、みたいなのものを家にいると受けざるをえないので、困ったものです。
「いっけなーい!遅刻遅刻!」
と言うや否や、私は食パンを口に咥えると玄関を飛び出しました。動きで音が、するほどまでに{ぶるんぶるんぶるんぶるんぶるん…}
 地に足をつけて踏み込むと、体の重みがずしりとします。そうして、その道には誰もいません。人の影もありません。ただ私のために用意されたレールのような通学路を段々、段々と、気の抜けたアニソンのアウトロのクリシェで進んでいきました。それはまるでぶつかりうる誰の存在もこの町にはいないような気にさせるリズムで、ふと足元を見たら足場もなく、気がついたら私の身体はただそこへと沈み込んでいました。写真みたいにパラパラ、パラパラ、と景色が展開していきます。
 どこに向かっているというわけでもありませんでした。穴の先にはお日様に照らされた野原と、お人形さんがいます。見たことも覚えもない世界だけどなんだか心地よくてなんだか美しい。いや違う、そうじゃない、私はグラビアアイドルを前にするといつも、ここを眼差し目指していた、どこにいても常にそこに埋もれていた、お人形さん、会いたかったよお人形さん。どこにも行かないでお人形さん…
 どこにも行かないさ、だってあなたがお人形さんだから。お人形さんはそこにいて、私が視線を向けると既にそこで一体になっている。お人形さんは私で、私はお人形さん。ふたつはいつまでも遊んでいて、いくら見つめあっても、触れあっても壊れることはないーーーそこから聞こえる声たちに、ちょっと耳を傾けてみましょう。

    ✳︎           ✳︎              ✳︎


「ぶるる ぶるるる ぶるるる ぶるるる」
と音がしたので枕元のスマホに手を伸ばす。朝7時、と知らせるそれが通知からの情報を隠していた。
 繰り返す日々やそのタスクの容量が、基準ラインのスレスレなところから顔を覗かせていて、しかしそのスレスレを常に上下しているために溢れない。溢れないままにただそこに漂うのは、何かにおいのようなものだ。仮にそのにおいを「私」と呼んでみた。対他的な生活の工夫とは、この「私」の存在をごまかすための脱臭なりフレグランスなりに他ならない。所詮は対症療法なのだから「私」はごまかされ続けなければならないのだが。
 毎朝ベッドから起き上がるときには、私は何の地獄を見ていてこれがいつまで続くのだろうという気がするが、ふとした楽しみの中にいるときには、その認識を忘れている。私の存在のこともまた、忘れている。そうして、そういうふとした楽しみがないとき、この私が腐臭を放っていることにふと気づく。

「いや、本当にそうだろうか?」
と、ここまで思考を展開させてうち止めにするのは、私がその「ふとした楽しみ」のために、女から降りたという、数年前の経験があるからだろう。去年まで続いたその期間の間、私は結果として女から降りていたのだった。
 その期間を過ぎたあとになんで女に戻れたのかとか、なんで戻りたいと思ったのかとか、果たして本当に女に私は戻れているのかとかはもうわからない。女から降りることと、腐臭がそこにあることが、女である私にとって必然的に同値であるのかどうかもわからないのではあるが、降りた経験が私にはそのときの一回きりしかないからこう言いたくなるのだ。ただ欲望のままに生き、楽しみだと思うことを繰り返しただけだったはずが、そのとき発見された腐臭がまだ腹の底にある。

 過食の始まりは大学に入った年の、8月のことだったと思う。
 過食と関係があるかどうかは医者にしかわからないことだが、当時精神状態は優れなかった。どこにいてもぽっかりと切り離されたところに閉じ込められている感じがして、それが、頭の中も現実も、灰色の靄がかったモヤモヤに塗り替えさせた。閉じ込められるというのは、孤独で独りぼっちとか逆に人付き合いが疲れるとかそういうことではなかったのだけど。説明が難しい。
 実はむしろひとは好きだ。当時もまたそうだった。体調がいいときには延々とだるがるみするので、呆れたような表情を暗に隠してされたとき、いつも少し悲しくなる。

 バイトで入ったお金を週ごとに分けて、夕方というか昼過ぎごろ、目が覚めるとスーパーで菓子やらパンやらドーナッツを買えるだけカゴに詰めていく。値下げのシールが狙い目だった。部屋でそれらを袋からひとつ、またひとつと包装を裂いていく。ひと口、またひと口、とそれらを喉に詰め込んだ。目の前にあるのは糖質と脂質の塊で、詰め込むのに重要なのは一定のペースの流れだった。流れが乱れると気持ち悪くなる。ペットボトルのコーヒーやお茶を適宜補給する。飲み物で糖分は取りたくない。
 自然と流れが止まったとき、血糖値の極値を背骨と首筋が認識し、意識のぼんやりとした脳がその一部をなしている。靄がかった頭はその実、スッキリとする。何も考えないで天井を眺める。このとき私は、自分を縛る重みから逃れることができる。
 それでも何かを考えたくなったときには、考え事を頭から追い出すために、たまに『カルタ・カッタ・ガール』の切り抜きをyoutubeで見た。画面にキュウゾウたちのやり取りが映り、晒された視界に色の継起が移ろう。キャラクターの声がした。私は、画面の現前に横たわって、部屋の中ただ眠りへと体を沈み込ませた。

   ✳︎             ✳︎            ✳︎

『カルタ・カッタ・ガール』は、私たちが高校生のときにやっていた深夜アニメだ。
 インドネシアの都市「ジャカルタ」の女子高生が、「日本のカルタ」に部活動を通して親しんでいき、カルタの世界大会を目指すのが全体のストーリー。世界大会編のライバルとして出てくるのがインドの都市「コルタカ」の大学に設置された「ジャパニーズカルタ同好会」で、日本のチームはとっくに予選で負けている。
 この描写にある右翼団体が怒って、テレビ局にクレーム(中には脅迫を含むものも含み、刑事事件へと発展した)の電話を大量に入れ続けたという事件のために、後にネットで話題になった。そしたらキャラクターのやり取りに味があるとか何だと、最初は一部のオタクが言い出した。それで切り抜きが散乱されたのが、いまやネットミームとして有名だ。out of contextのbotがツイッターにいくつか存在している。アメリカのドラマで、アジア系のアイデンティティを持った登場人物が、上司がいない裏とかで少し鋭いことを言う比喩として、同作品の発言「ちはやふりすぎてしぬ」が引用されたのは記憶に新しい。アメリカの映像作品での、アジア系の役者が演じる役の画一性については、以前から問題となっていたから、その意味でも一石を投じたと言える。インド人がプログラマーである必要も、高度に抽象的な形而上学によって自身の遅刻を正当化する必要も別にないのだ。

 高校生のときのコトミが平安時代の和歌のエモさについて熱く語っていたのが、実は『カルタ・カッタ・ガール』のサリの受け売りだったことを知ったのは、割と最近のことだ。たまたま、過食後切り抜きを見ていたときの、とあるデジャブから疑念を抱き、後に集中して同作品を見ると、全てそれらが当時のコトミの発言と同じであることに気づいた。
 古典なんてまるで興味がなかったし、現にいまも興味もない私が、日文に入ったのはコトミに合わせたからというよりも、コトミの和歌を語る口ぶりだけが信用にたるものであるように思われたからだ。しかしコトミは大学に入ると、突然、和歌や古文への興味を失った。それでも未だに私たちは仲がいい。
 私の生活が一番荒れ果てていたとき、本当に心配して寄り添ってくれたのはコトミだけだった。

 あの頃、高校生にもなってアニメを見るのは、子どもっぽくて、グラドルになれない負け組のすることだ、という旧来の価値観があった。コトミも私も、世の中の保守的な縛りから降りていた。降りるだけの説得力のある語りが、コトミにはあったように思える。私たちは古典の話をふりしてアニメキャラのセリフについて解釈しあい、そしてグラドル至上主義と戦うふりして受験勉強に勤しんだ。
 大学に入って私はバイトと過食にあけくれ、彼女はふつうの大学生になった。彼氏を作ってほどほどにバイトをして。

 カルタ・カッタ・ガールを全て見終わったとき、私は過食をやめていた。三年生になっていた。春だった。それも今年の春だ。ゼミは近代日本文学に決めた。私は蜘蛛の糸に選ばれたのだ。

 コトミはというとちなみに、楽だと評判の万葉集のゼミに入ったのだった。ゼミ旅行で行ったらしい、万葉の里の写真が送られてくる。

    ✳︎                 ✳︎                  ✳︎

 今期になってから、朝マックのセットを食べるのを毎週木曜の朝の楽しみとしている。マックグリドル・ソーセージエッグに、ハッシュポテトとコーヒーのホット。この組み合わせが私は好きだ。
 今日はその木曜日なのだった。大学の最寄りよりもひとつ先の駅で降りると私は、いつものマクドナルドへと足を急がせる。早く急がないと、10時半になれば朝マックはいなくなる。
 擦れっ枯らした空気を吐く毛布をパタパタとはたいて、たたんだ。もう既に内側の柔らかな部分は失われているだろうに、温度を保つためには手放せない。
 色のベージュがその埃を、口を開けて吸い込むために待ち構えるベッドのシーツがそこに見えて、急に寄り掛かってくる人の所作で体重を乗せて座った。SNSの通知はbotだけだった。暫くbotの通知を眺めたままに、マルチタスク画面からアプリをスライドした。ホーム画面が目に入る。昔撮った空の写真が映っている。
 確か幸福な夢を見ていて、幸福な夢ならば覚めなければいいのにと思ったことを覚えているのだけど、いつどういう風にして私がそう思ったのかが、なぜか記憶のどこにもなくて、思い出せないことに不快を感じた。

 きっと中学のときの夢だろう。中学のときの町に、そこの人がいてそこの学校がある。そうして目が覚めるとき、私は懐かしいところにひとりぼっちでいた。
 私は高校生になるときに親の転勤があって、いま住んでいる首都圏の郊外にうつった。高校の皆とは大学に入ってからも繋がりがあってみんなと仲がいい。それ以前の記憶は写真みたいに、私の中でそれぞれバラバラに対象化されうるもので、まるで前世の自分みたいだ。あの町の誰も自分のことを覚えてはいまい。

 中学の図書室の中にはコンピュータールームがあって、そこにはユイが座っている。私はいつも、何かを調べている彼女を対面に眺めながら、本をパラパラとめくる。女の子らしくない四大文明やらオーパーツやらUMAなどの本を読んでいても特に何も言わない、彼女との距離感が心地よかった。
 でも今日はその彼女の背後にアケミがいることに気づいた。アケミとユイが何か会話しているのだけど、それが意味をなして頭の中に入ってこない。だから気がついたときにはもう、アケミは後ろからユイに抱きついていた。
「ちょっと、やめてよー」
「ふむふむふむ、Dカップと言ったところでしょうか…手に収まるサイズの、健康的な発育が」
とかなんとか言いながら、アケミはユイの胸をまさぐった。ユイの紺色のセーターが曼荼羅模様みたいにうごめいていた。ある部分があっちに行ったりこっちに行ったり。そうして連携は取れているといったような。
 そのとき、まだ女性的な発達をあまりしていない風な自分の体が、潜在的な重さとして自分の目線を吸い込んだ。そこにアケミの大きく膨らんだ胸を想像した。

 ユイは実際はDカップではなかったが、アケミはと言うと果たして、とっくにそれ以上の胸があった。しかもグラビア映えするタイプのそれだったから、事務所からの連絡もあったとか噂に聞いた。
 学校の廊下では、彼女が通ればサッカー部の男子集団が「ふくろとじ」と暗号みたいにささやきあった。学期間に2、3度男の生徒から告白され、その都度全てを断った。そうして周りの女子たちに対しては、誰でも彼でもスキンシップ取りたがった。自分も一度だけ、あの日の後日のある日、廊下でアケミに後ろから抱きつかれた。彼女は自分の肩に顔を擦り寄せて言った。
「んふふ、いい匂いする」くんくんくん、と彼女は音を立てながら、また同時に口を開く。「でも、なんだかとても悲しい」
 振り返ると彼女は瞳をうるっと滲ませていた。
「壊れたお人形さんみたい」
 涙目の声で抱きついてくる背後にいた彼女の感触は生きているみたいにずっしりとしていて、人間的ではあったが、それが健康的な発育と言えるかどうかと言えば、果たして疑問であった。物事には順番というものがあるのだ。私も彼女もきっと、ちゃんとした順番をとっくに、踏み外してしまっていた。

    ✳︎                 ✳︎                  ✳︎

 そこは駅舎を出た、通りの開けたところの影だった。段差になった下に自販機が置いてあって、裏道の路地と繋がっている。駅舎を出ると通りの信号が点滅していたので、急いで渡ろうとしたらふと、そっちの方向からの気配を感じた。あれ、どうしたのだろうと振り向いたとき、大きなリュックサックを据えた、自転車の脇にしゃがみながらスマホをいじっていた男と目があった。30代くらいの男だった。茶色い目をしていた。
 私が最後に、過食嘔吐をしたとき、便器に浮かんだ吐瀉物は、虫を潰したような茶色い線が引いていた。あの色味と同じトーンをした彼の視線が、その日の私を思い出させた。
 信号を渡り損ねたので、通りの、マクドナルドと反対の側の道を歩いていった。
 そうして歩いて行った先で、ちょっと以外なことが起こったのだった。コトミはいつも、マクドナルドのパティには虫が使用されているのだと主張して、マクドナルドは利用しないのだが、果たして、その日そこで会ったのが、他ならぬコトミなのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?