鳥籠の中(上)

「チチチ、チチチチ」
と、鳥籠の中にさえずりの声が鳴る。鳥籠の置かれた部屋はガランとして、さえずり以外の全てが、運動状態に置かれていない静止物なままに各々の位置に居座るような有様だった。
 この鳥籠の下に広がり、下からそれを支えるところの大地をなしているのは、部屋に置かれた勉強卓である。この大地は広陵としていて、しかしそこに鳥籠以外に見えるのは、不自然に鮮やかな黄緑に包装されたウェットティッシュの個パック、それから、その個パックと同じくらいの存在感をもって隣接する位置を占める、カレンダーの衝立くらいなものだ。そうしてそれらはサイモンガーファンクルの音楽のように気が抜けていた。個パックはその表面のシールがペロンと剥がれているし、カレンダーはまだ先月なまま。気が抜けた状態が、ただそうあるがままにそこにとどまった。
 そう、縫い目も針の跡もなしで。個パック、カレンダー、先月の予定に勉強卓。

 全ての大地は絶えずどこかへの中継地であり、その表面を流転する石や砂はどこかへと堆積されゆき、中継地点のひとつを形作る。形作られた全てが形作るものとしてどこかへとただ流れ去っていく。この卓上の我々も例外ではあるまい。そういう観念の眼で、この我々の大地をなす勉強卓に視線を向けていたら、突然床の下からかガタン、と勢いよく彼女の、玄関の扉飛び出す音が聞こえた。彼女は吸い込まれるが如く眼前へと飛び出した。その方向は扉からして外界へと繋がっていた。
 当の外界へと向かって開いた扉は誰にも省みられることもなく、やはりまたガタンと、音を立てて閉まったのでそれっきり、人通りのない朝の時間帯、町の音も何も聞こえなかった。だからこの空間には、このさえずりだけがチチチ、チチチチと持続しているように思われるのだった。例の二つの偶発音をその裂け目かつ境界として。
 そうしてチチチ、チチチチ、と相も変わらずやっていた、その日、突然、はたと気づくとこの部屋の扉は音ならぬ音を立てててギギギと開いた。

 そこに見えたのは彼女の母親だった。彼女は彼女の目線を、こちら側に侵入するや否や直ぐ、この鳥籠の中にじとっと据えた。据えられた自分には身動きも、息もできぬかのようだった。
「身体が言うことを聞かないッ」
という、漫画的な台詞以外に、何も表現が思いつかない得体の知れない現象と、その現象がいま、現に自分のもとで起こっていることに対する、現実感を欠いたある種のぼんやりとした淡い感慨に、全身が支配され、そこへずぶりずぶりと呑み込まれていった。そして生まれる前の、いや生まれ変わる前の鳥とも人ともつかぬ間に、こんな感じの淡さを内に含むあるものを、かつて自分は経験したのではないかと思い起こさせるような、肌感覚と言うべきうごめきが、支配されたこの全身の、表面をあちこちと這ってくるように思われた。
 ふと視線を上げると、鳥籠の仕切りは開いていた。何もかもが外界と繋がりっぱなしななか、部屋の扉だけが確かに閉じられていた。そこにはもう誰もいなくなっていた。
 あの、耳に聞こえないギギギを随伴してそこに広がった動きは、遠い昔の伝説みたく他人事なものにしか思えなかったが、それでも確かにその痕跡が、注意を向けるたびに迫ってくる予感といった塩梅に、確かにそこに感じ取られた。

 風を切る音が聞こえた。地を蹴って道路を駆ける音が聞こえた。上空から街の表面を撫でるなにものか(あるいは、なにものかたち)が、その撫でられた街の部分と渾然一体になりながら一度強調された輪郭がその度に背景にぼやけていく、匿名的な無数のざわめきが去来してはそのたびに確かに鼓膜を刺激した。
 それはまるで、そう遠く離れてはいないどこかから聞こえる、自己の存在とは無関係に発される声を伴った、終わり掛かりの祭りのようだった。めいめいの声をあげる保育園児たちが載せられたお散歩カートを横目に通り過ぎるときに、似たような気分が惹起されるのかもしれないと思った。しかし、そのときのそこには誰もいないのである。ただ確かにそういう気分の感じが、眼前の光景と無関係に、自分の頭に浮かんだと思っては消えていくだけなのだった。道を急ぐ。道は段々と細くなったところが交差する十字路である。「飛出注意」という赤い字の上をピョンと飛び越える、男の子がジッとどこかを見ている。一体、どこを見ているのだろう。そこの裏にもやはり誰もいない。
 いつも静かなはずの時間帯だからと、そう思って今朝は玄関を出たので、番狂せのざわめきたちは自分の無意識に、ある種の不安的な揺らぎを与えていたのだと思う。体の中のどこかにいる腹の虫がその波の形状を認識しているのを横目に私は、ただその朝に瀰漫させた、キラキラのチーク散らした肌の表面が、一番かわいい顔の角度して歩いていった。
 表面を覆うキラキラたちと裏側に残った諸感覚が、境目をぼんやりとししている中、その境目たる私を道の先へ道の先へと移動させているのだと思った。道の向こうは茫洋として、向こうの先へとどこまでも歩いていくんだと思った。そう思ってたらふと、誰もいない部屋の鍵を締めた今朝の記憶が、ぼんやりとした頭に浮かびあがった。そのときだった。
《ドンッ》
衝撃は例の揺らぎの発生源たる、ざわめきたちを静かにどこかへと収束させた。子供らを帰る場所へと帰らせるハーメルンの笛吹男みたいに。その収束に呼応して、例の少女は、彼女の走らせていた脚をピタと静止させた。そのとき、その反作用の勢いからなのかーーーそれとも眼前の景色を眺めるために彼女が前方を向いたので、よろけながら顎を剥き出した拍子のシーソーの原理で、鉄砲玉(ピストル)を聴いた競走馬の如く踏み締め駆け抜ける勢いで、そのこんがりとした足場から、上空へと自ずから飛び出したのか、少女の口元から目玉焼きが、くるくると旋回しながらその軌道を空中に描いた。と思うと、尻もちをついていた自分の顔の表面に向かって、べちゃんと着地した。そうして私は顔の表面がその大きな目玉焼きに覆われた。顔の表面でトーストのバターの匂いがして、半熟でトロトロになった、卵の黄身が化粧と混ざって思わずむせた。キラキラのチークとトロトロの卵が互いに肌の表面の上で混ざり合った。混ざり合うそれらの裏側で、私は十字路の上をその刹那、思わず寝そべってしまった。
 腹の底から込み上げるえずきを我慢しながら顔を上げ、それと連動させるように上半身を起こしたときには、目玉焼きは私の表面からずり落ちて、地面に転がり落ちる音が聞こえた。べちゃり。眼前には例の少女がいる。べちゃりとした目玉焼きと、同じ大地に立っていた。
 大地は心なしかキラキラとしていた。着地した目玉焼きの媒介によってそこに付着した、私のキラキラのチークの微かな痕跡かもしれない。ジッと見つめていたら、
「産まれたてのお星さまみたい」と身元不明の少女は声を発した。「おねえさんとってもきれい」
共有する記憶も関係もなかったはずの、二人の間合いに何か淡い一種の感慨のようなものが起こって、そこに目を奪われつつも苦笑いを押し殺して口を開いた。
「あ、ありがとう、けどねえ、ちょっと待って」
「え、」
「困ってるんだけど」
「ごめんなさい、ウェットティッシュあります。ウェットティッシュがありますから。ウェットティッシュ」
そう言うと彼女は私に、その黄緑と白で出来たペラペラと音を立てる包装の、手に持っているには少し大きなその個パックを手渡してきた。
 苦笑の緊張が緩和されたのか、声をあげて二人は笑った。少女に対して私は2、3の質問を投げかけた。名前と、住む所や身分について。意外性のない気の抜けた返事が返ってくるのを、さも儀礼的な挨拶のように交わしながら、例のウェットティッシュの個パックの表面を、撫でながら中身を辿っていくように、いじくった。
 そうして手に持ったその個パック眺めながら、どうしてこうなったのだろうと思った。
 ウェットティッシュの、包装にギッシリと詰まってた中身にも、手に取る私の肌の表面にも見えず、ただただそれらの背後に潜んでいるかのように思われる、これがこうなったに至る、縺れた出来事の連絡が、頭の中に浮かんでくるのを手繰り寄せようとそこに注意を向けながら、眼前の変わらず茫洋とした向こうの先へと、私が彼女に声をかけたので、二人は歩いていった。

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