その場かぎりの夏 8

「何、びっくりした」
 その間に流れた沈黙を破るように、東條ナツメは思わず声を漏らした。彼女の声は昼間のサービスエリアの空気に溶け込んでいった。
 直前にそこに放たれた「わ!」という彼女の叫び声と、この空気感が並列されるのを眺めた彼女の姉は、彼女の位置から感じ取られうる可笑しみへの満足をその表情に浮かべた。その様を見た東條ナツメが、彼女の叫び声が受け取られるべき位置にいる相手がこの姉であったのを認め、姉に対してまた同じ表情をした。さっき背後からその身体を下の方へ、つまり手摺段の向こうへ、突き落としうる力を伴う腕の存在に対して、「わ!」と言ったのだった。
 姉は、びびりすぎでしょ、と返した。そうしてふたりは束の間その表情のままでそこからの川を眺めると、早々と屋内の方向に戻っていった。

 サービスエリアの建物の側に備え付けられた日陰のベンチに居座る父親は、彼の娘らがそこに来たとき、まだ煙草を一本吸い切っていなかった。彼女らの気配を察して彼は、スマートフォンを眺めながら短くなったショート・ホープを垂直にもって煙を吐いた。そのとき、例の手摺段の周りでは、まださっきの蜂がぶんぶんと飛びまわっていた。
 屋内に入ったふたりは、土産物やらソフトクリームやらを物色すると、すこしたって車へ戻ることになった。買ってもらったアイスクリームを手に持ちながら、ふたりが手摺段のところを避けるように駐車場を横切っていったので、彼女らの父親はそれを訝しむ訳でもなくふと眺めてみたのであった。

 サービスエリアを抜けると、車は目的の川まで2時間弱休みなく高速を走っていった。そこからの風景を眺めたとき、彼女にはふと茫洋といったような感じの気分が沸き起こった。

    *    *    *

 例の折り返しのトイレ休憩だと言って止まったサービスエリアは閑散としたところにあった。便所を抜けると、行き止まりに備えられた手摺の下方に、川が流れていた。くすんだ緑色をして、少し混濁しているように見えるのは2日前にここに降った雨のせいだ。ただ真っ直ぐに流れる緑色に、木の切れ端みたいなのがぷかぷかと浮かんでくる。どれくらいだっただろう、手すりに身を乗りだして、それらを眺めていた。対して彼女にいま見えている目的の川は、実際に来て手近に見ると雑多な方向にうねうねとしている。
 それらを比較するかのごとく、東條ナツメの頭にはサービスエリアからの景色が思い出された。そこに焦燥の感じが沸き起こった。

「ちょっと、ここで待ってて」と言って姉がいなくなったのは、2人行動で川の流れを探索しだしてからいくらかたったときのことだった。その理由はわからなかったが、ただいつものことだ、そう彼女は思った。
 横にいてほしいと思ったとき、いつもそこにはいない。さっきまではここにいたはずのその人が。でも思っていても戻ってこないなと思う。なので、取りうる全ての行動をとってここにいてほしいという感情を表に示そうとする。行動の帰結が実現したとき、何であれ彼女の表に出したそれは世界と一体化する、それを眺める誰かと渾然一体に。あるいはそうなってほしいという願望を抱いているのだ。そしてそれらは彼女にとって、同じことであるように思われた。
 うねうねとくだる川に沿って歩いていると、何かを表に示すやり方がわからなくなる。経験からして導くべき結果は、頭の中では見えているのだけど、そこにどうやって至るのか、なんだかぽっかり忘れてしまったような感じがする。
 自分の内があらわになる。泣いたり、笑ったり。泣いた自分や笑った自分の前にいる人を願う。作為があるのを自分自身が見出すと、動きが強張り、この身の内にある全てが吃り出す。身体を動かさせるがままに、彼女はただ歩き続けた。

 ちょっと、ここで待ってて、とさっき言われたのに、随分と奥のところに来てしまった、と思いながら歩くそこに広がる河原は、東條ナツメただひとりを包み込むように流れていった。水面が日差しをキラキラと反射していて、覗き込むと彼女の影がそこに映った。
 

  

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