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文献からみた栗駒山名の定着過程



1.はじめに

雪形「駒」が現れる山は多く、会津駒ヶ岳や秋田駒ヶ岳、越後駒ヶ岳、木曽駒ヶ岳など雪形に由来する「駒ヶ岳」が多くあります(1)。栗駒山にも、五月の田植えのシーズンになると疾走する斑馬の雪形が現れます。山名考などとあらためて考えるまでもなく、この御室周辺の雪形が山名の由来です。江戸時代中期に製作された『仙台領際絵図』や他の文献では、栗駒山は本来の雪形の出る1573m峰を「駒ヶ嶽」と呼んでいました。また、最高峰1627.7mは「大日嶽」として区別していました。それがどうして栗駒山という山名に定着していったのでしょうか。

東北地方は古くから和歌に詠まれた名所、つまり歌枕名所が多くあります。辺境の地であったみちのくは、都人の憧憬の地として好んで歌材にされました。「くりこま」もこのうちの一つです。これらについて一つの秀歌が詠まれると、特定の地域の固定概念が生まれました。これが歌の名所となり、平安時代には歌枕として固定化するに至ります(2)。 一方、江戸中期に書かれた『奥羽観蹟聞老志』などの地誌は、すでに伝承となったこれらの歌枕名所を合理化する方向で執筆されました(3)。この再整備の過程で、明治初期までに「くりこまやま」は現在の栗駒山として定着したと考えられます。

はじめのうち、栗駒山の山名は歌枕に詠まれた「くりこま」が由来だと思い、その裏付けをとるつもりで『奥羽観蹟聞老志』や『夫木和歌抄』を見ていました。でも、結局は断定できませんでした。歌枕の成立と再整備との間には少なくとも七世紀の空白があり、地誌などの記述をもとに栗駒山名を単純に歌枕であったと断定することは出来ないからで。そこで、ここでは和歌に詠まれた「くりこま」が栗駒山として定着する過程を地誌、紀行などによってたどってみたいと思います。

2.古歌に詠まれた「くりこま」

栗駒山という山が古歌に詠まれていることは『奥羽観蹟聞老志』(オオウカンセキモンロウシ (4) 以下、聞老志と略) に詳しく、大和物語から2首、夫木和歌抄から5首を引用しています。『新編・国歌大観』(5)(6)(7)に詳しい索引があり、「くりこま」や「くりこまやま」で検索してみました。

「くりこま」を含和歌一覧

私家集と大和物語

「くりこま」を詠んだ歌人で、年代を特定できるのは元良親王(890-943) と大中臣能宣(921-991) 、大中臣輔親(954-1038)の3人です。元良親王は当時随一の風流人で有名だったようです。また能宣と輔親は親子で、代々伊勢祭主を勤めた家系に生まれました。

みかりするくりこまやまのしかよりも
ひとりぬる身ぞわびしかりける

『元良集』(112)

もみじするくりこまやまのゆふかげを
いざわがやどにうつしもからむ

『能宣集』三巻 (234)

くりこまのやまのさくらのちらざらん
はるのうちにはかへらざらめや

『輔親集』(200)

村上天皇の頃(945-967) に成立したとされる『大和物語』は主として貴族を素材にし、和歌をつないで物語が構成されています。くりこまを詠んだ歌は第82段と第 140段ですが、後者は元良集からの引用です。

くりこまのやまにあさたつきじよりも
かりにはあわじとおもひしものを

第八十二段 (116)

みかりするくりこまやまのしかよりも
ひとりぬる身ぞわびしかりける

第百四十段 (222)

古今和歌六帖(8)(9)

ほぼ十世紀末に成立したといわれる『古今和歌六帖』は類題和歌集としては最も古いです。その成立・編者等については定説がなく、現在残っている写本、印本についても、鎌倉期の数葉の古筆切を除いて中世極末期以降のものです。くりこまを詠んだ歌は3つあります。最初の "雉" を詠んだ歌は大和物語のものによく似ていて、下の句が異なります。他の歌はこの和歌集ではじめて現れます。特に朴木枕を詠んだ歌は、陸奥にあるくりこま山と限定している点で他の歌と異なります。

くりこまの山にあさたつきしよりも
われをはかりにおもひけるかな

第二 きし (雉) (360)

みちのくのくりこまやまのほほの木の
まくらはあれと君かた枕

第五 まくら (712)

くりこまのまつにはいとと年ふれは
ことなしくさそおひそはりける

第六 ことなしくさ (315)

夫木和歌抄(10)(11)

鎌倉後期の私撰類題和歌集。『夫木集』ともいいます。撰者は遠江(トオトウミ、静岡県西部) の豪族、藤原 (勝田) 長清で1310年の成立とされています。万葉集以降の歌一万七千余首を四季・雑各18巻、計36巻に類題した膨大な歌集です。くりこまを詠んだ歌は7つあります。このうち、大中臣能宣の歌が巻第15と巻第20で重複しています。また、古今和歌六帖の3つがそのまま選ばれています。

もみぢするくりこまやまの夕かげを
いざ我がやどにうつしもたらん

巻第十五 秋部六 能宣朝臣

もみぢするくりこまやまの夕かげを
いざ我がやどにうつしもたらん

くり駒の山に朝たつきじよりも
われをばかりに思いけるかな

くりこまの松にはいとどとしふれど
ことなし草ぞおひそめにける

いかでわれくり駒山のもみぢ葉を
秋ははつとも色かへてみむ

巻第二十 山

たけくまにいづれたがへりくりこまの
みあけのまへに松たてるをか

巻第二十九 家集 藤原長能

みちのくのくりこま山のほうのきの
まくらはあれど君が手まくら

巻第三十二 枕

イメージの中の「くりこま」

奥州経営のために設けられた多賀城府には奈良・平安時代にかけて、多くの都人が陸奥守や供奉として赴任してきました。その中には、『万葉集』の末期を代表する大伴家持や藤原実方などの歌人もいました。したがって、中央との交流の過程で彼らが直接、または伝え聞いた人々が間接的に詠んだ可能性もあります。中央文化人にとって東北は憧憬の地でもありました。自然の一片にすぎなかった場所が歌に詠まれると、そこに人間の心情が加わり、憧れのイメージで別の歌が詠まれます。その場所には固定観念が生まれ、歌枕として定着してゆきます。一方、和歌は専門の歌人らによって詠法が確立され流派の宗家が現れてきます。しだいに歌は技巧過多となり、形式的・遊戯的なものに堕落して、詩性や情熱を喪失するようになります。結局、歌枕に詠まれた「みちのく」は、中央文化圏のなかに融和された「みちのく」の姿であって、本来の面影ではなかったかもしれません。

「くりこま」を詠んだ和歌をいくつか拾ってみましたが、現在の栗駒山のイメージとずいぶん違っているのは明らかです。少なくとも神の鎮座する奥山ではありません。「くりくま」で検索すると京都府南部の宇治市,城陽市周辺を指すと思われる古代地名があります。これらの「くりこま」を「栗隈」に置き換えてもおかしくありません。とすれば、「みちのくの栗駒山」も陸奥の同じイメージの中にあった山かもしれません。

3.仙台領内の絵図

江戸時代にはいると幕府の要求によって領内の絵図がつくられました。地誌が編纂される以前の栗駒山は「駒ヶ嶽」で共通しています。

仙台領国絵図

仙台市博物館に行くと仙台領の巨大な絵図があります。正保年間 (1644~1648) に製作された『仙台領国絵図』を元禄10年(1697)に写したものです。宮城県図書館にその写真があります。栗駒山周辺には「駒ヶ嶽」と「す川湯」が書いてあり、いずれも磐井郡に属しています。南側には沼倉村から「田代長根」を越え羽後岐街道と、温湯から「よたん坂山」を越える羽後街道 (仙北通り) であります。これらは栗原郡側に属しています。

陸奥国仙台領際絵図

1700年に製作された絵図のうち出羽国秋田領を描いた絵図に「駒ヶ嶽」とあり、郡境の線をはさんで「須川湯」と「剱山」が書かれています。同年に秋田藩で製作された「秋田領雄勝郡際絵図」では「剱嶽」と「駒嶽」になっています。領境は「白洌峠」で、現在の県境とおなじである。仙台領側からの二つの街道は秋田領内で合流し、男安村 (小安) に通じています。この合流点は今の湯浜温泉であるから、領境は現在の県境より宮城県側にあったようです。

4.『仙台名所記』

仙台図書館所蔵の本には、末尾に「元禄八年写」とありますが、文中の記述より、成立は寛文12年(1672)とされています(12)。仙台領内の名所・旧蹟を簡潔に説明し、歌枕名所もほとんど網羅しています。栗駒山については次のように書いています。

「一 栗駒山 名所なり 胆沢郡此栗駒山を今は駒ヶ嶽と云。
 夫木集
 陸奥国の栗駒山の朴木ハ
 花より葉こそ冷(スス)しかりける」

この和歌は夫木和歌抄にはありませんが、歌枕にある「くりこまやま」が仙台領内にあると指摘したのはこの書が最初だと思います。ここでは栗駒山を現在の焼石連峰・駒ヶ岳としています。平安時代にはこの近くの胆沢城に鎮守府が置かれていたので、歌に詠まれたとしてもおかしくありません。

5.『奥羽観蹟聞老志』

『奥羽観蹟聞老志』(4)は、仙台藩の儒学者、佐久間洞巌(1653-1736) が4代藩主伊達綱村の命により編纂し、1719年に完成しました。全20巻からなる仙台藩内および東北の地誌ですが、名勝旧蹟、神社、山川奇勝を古文旧記や古今の和歌、伝説などによって書いています。現在、仙台叢書第15、16巻に収められています。

膽澤郡・栗駒山

このなかで、栗駒山は栗原郡 (巻之八) ではなく膽澤郡 (巻之十、膽は胆の旧字) に記載してあります。延喜式神名帳に載っている駒形神社を山中に祭っていて、現在の焼石連峰に属する駒ヶ岳をさすことが分かります。そして、この駒ヶ岳を仙北、磐井、栗原にまたがる広大な山域としてとらえています。しかし、絶頂は大日嶽としています。残雪が奔走する馬の形をしていることや、山中の岩窟に馬頭観音、大日如来、虚空蔵菩薩の仏像が祭ってあることなどは、現在の栗駒山の記述のようにもとれます。

この膽澤郡には「酢川岳」の記載もあり、奥羽の両境にまたがる大岳で、温泉があることを紹介しています。そして「日本三代実録」から、873 年に温泉神に従五位を授くと引用しています。一方、栗原郡の記述では、駒形根神社が神名帳に載っていることだけを紹介しています。従って、須川温泉側から行く駒形根神社の口伝を、膽澤郡にある駒形神社のものと記述したのかもしれません。

和歌の引用

栗駒山の地名は雪形「駒」が由来で、歌枕に称する所としています。大和物語や夫木和歌抄に詠まれたくりこまの和歌を引用していますが、初句が「みちのくの」で始まる歌を根拠に、領内の「駒」にちなんだ山だとしているように見えます。

「夫木集
 みちのくのくりこま山の朴の木は
 花より葉こそすすしかりけれ

 同 朴木枕 人丸 松葉集
 みちのくの栗駒山の朴の木の
 まくらはあれと君か手まくら」

朴葉をよんだ歌は『仙台名所記』と同じく夫木和歌抄にはありません。また朴木枕の歌を人丸としています。松葉集とありますが、1660年刊の私撰和歌集『松葉名所和歌集』で朴木枕が柿本人麿の歌になっていたのでしょうか。 (古今和歌六帖では一つ前の歌が人丸となっていた)

6.『封内名蹟志』による修正

仙台藩の佐藤信要(ノブアキ)は、1741年に『封内名蹟志』(13)21巻を編纂しました。講官高橋以敬の校訂を得て幕府に献じらました。この書は『聞老志』の誤謬を訂正し、記事を簡潔にしたものです。仙台叢書第8巻には1851年に漢文から国字に改めたものが収められています。

栗原郡/栗駒山

栗駒山はこの地誌ではじめて栗原郡の駒ヶ岳とされました。あまり長くないので以下に引用します。

「栗駒山。沼倉村に有。下同。
 山上朴樹多し。頗る美材也。貢公用。郷人又駒ヶ嶽と稱す。磐井郡五串村に跨れり。神名式に載る所。駒形根神社。山上に有。其路険難にして。土俗老少登り難し。故山下に小社を建て祭祀せり。此地を今一の宮といふ。
 封内駒形と稱する地。二ヶ所有。一は伊澤郡に有。其字其訓相同じきが故。人多く是を誤れり。神社を以ていふ時は。當郡沼倉沼は。駒形根神社。伊澤郡西根村は。駒形神社也。山名を以ていふ時は。當所は栗駒山駒ヶ嶽といふ。歌枕に稱する栗駒山といふ是なり。古歌多くは朴樹を詠ず。此山朴樹多し。是其證なり。伊澤郡は駒形山といふべし。視る者妄りに混ずべからず。
 (中略)
 六帖歌枕。以下夫木集 人丸
 陸奥の栗駒山の朴の木は
 花より葉こそすずしかりける
  (後略)   」

このように栗駒山を栗原郡と修正しましたが、膽澤郡の駒ヶ嶽の記述はすっかり残したままになっています。そして、修正した理由をそこにはっきり書いている。「其地朴樹多く。其土地山勢又栗の文字をもて見る時は。栗原郡の駒岳ある事疑ふべからず。」

栗駒山の朴木

栗駒山を歩くとよく朴の木を見かけます。しかし、定量的に他の山より多いかどうかは分かりません(14)。北海道から九州まで分布する樹木で、他の山でもあの大きな葉や実が落ちています。過去に朴木が栗駒一帯の特産物だったという記録があれば『名蹟志』の記述は正しいことになります。現在のところ、例えば、1798年に仙台で書かれた『封内土産考』(15)や領内で書かれた他の地誌には朴木の記載はありません。ただ、菅江真澄が『駒形日記』(16)に朴木枕の歌を引用し、栗駒一帯に朴木が多かったと推測しています。ある医師(クスシ) の話として、栗駒山の朴木の皮は中国の厚朴に似た薬効があると書いています。また、当時、秋田県側の檜山付近に朴木台という地名も残っていたようです。

古歌に朴木が多く詠まれ、栗原郡の駒ヶ岳には朴木が多いという理由で栗駒山を特定されました。しかし、膽澤郡で書いているように栗原郡名によって合理的に説明できるというのが本当の理由だったのではないでしょうか。和歌についても、朴葉の歌を柿本人麿が詠んだということにしており、やや貴種流離譚に似た気配を感じます。いずれにしても、この『名蹟志』によって栗駒山は朴木で有名な栗原郡の駒ヶ嶽ということになりました。

7.『封内風土記』

『封内風土記』(17)は、仙台藩の儒臣田辺希文が5代藩主伊達吉村の名を受けて編纂したもので、いわゆる藩撰の地誌として1772年に完成しました。全22巻からなり、仙台藩でもっとも完備 された地理書とされます。『聞老志』は仙台領が決して卑俗非文化の地ではないことを立証する歴史書的な立場でした。これに対し、『封内風土記』は名所旧蹟志と精確な現勢の総合を目的に編纂されました。しかし、田辺希文は序文で老齢のため現地調査が不十分だったことを述べています。

栗駒山の定着

栗原郡吾妻郷沼倉邑の記述では、駒形山大日嶽があり、駒形根神社の由来を日本武尊が祭ったとしています。また、栗駒山については「盛夏にもなお雪を宿し、あたかも斑馬に似ている。東から望めは南に首、北に尾。西から望めば北に首、南に尾。斑馬が雲表を奔走する形である。故に駒形山の山名がついた。」としています。栗駒山名の由来については、膽澤郡西根村と同じく『名蹟志』をそのまま引用していて新たな考察は加えていません (ただし、本書には和歌の引用はない) 。したがって、この地誌以降に栗原郡・栗駒山は定着したとしてよいでしょう。

須川岳の認識

『封内風土記』では須川岳に関して詳しく書いています。磐井側南岸の猪岡邑および北岸の五串邑には栗駒北東の川名が見られ、その源流の山名を書いています。穢多川はゼッタ沢のことでしょうし、三津川は三途の川です。

・産女川(ウブメ川) (須川嶽狐形吹越澤)
・桂 川 (横根嶽澤そして須川嶽下に至)
・一石川 (須川嶽烏帽子形澤)
・穢多川 (須川嶽剣山澤)
・三津川 (須川嶽大日澤)

須川岳の位置については、五串邑に「須川嶽。駒形嶽。北方本邑に属す」とあるだけで明確な区分をしていません。一方、柏ノ森や薊禿など県境の山名が記載されています。膽澤郡・駒形山を膽澤、磐井、栗原にまたがると捉えているのに較べて詳しいです。領境にある須川温泉については、婦人病の効能から剣岳一帯の奇景まで詳細に記述しています。これは、秋田に通じる間道があったためでしょう。源義経がここを通ったという伝説があり、判官清水や判官石、判官田 (湿原のことだろう) といった地名があったようです(18)。

歌枕を巡って旅をした松尾芭蕉は、元禄2年(1689)に平泉を訪れた後、一関から岩出山を歩いています。随行した河合曾良の『曾良旅日記』5月14日(現在の6月30日)では天気吉とあり、岩ヶ崎を経由しているので栗駒山を目にしている筈ですが何の記述もありません。つまり、当時は和歌に詠まれた「くりこまやま」が栗駒山と認識されていなかった可能性が高いです。

8.駒ヶ嶽から栗駒山へ

地誌によって栗駒山の山名が定着しましたが、江戸時代に書かれた他の資料で栗駒山をどのように扱っているかを概観してみます。紀行などを見ると、栗駒山に対する地理的認識は江戸後期にはすでに確立していました。しかし、地誌などの引用によって書かれたものは依然として混乱がみられます。

『奥州里諺集』(19)

1760年に書かれた本書は、著者 (不明) が長年領内巡行に加わり、名所旧蹟や里人の談話など見聞したことを5冊に編集しています。 巻之二、九に駒ヶ嶽の記載があり「膽澤郡西根村嶽山仙台領南部領の境峠水落境なり」としています。そして、仙臺名所書上 (仙台名所記のことだろう) を引用して、この駒ヶ嶽を一説に栗駒山と言う事を紹介しています。また、栗原郡にも駒ヶ嶽があることを書いていますが、栗駒山との関連には触れていません。

巻之二、十四には須川嶽の記載があります。磐井郡西岩井猪岡村にあり栗原郡三迫駒ヶ嶽につづく、としています。また、寛保3年(1743)に山鳴りがして泥水と大木が磐井川を流れたことを書いています。著者が翌年に通りかかったとき、須川嶽に煙を見たようです。この折々焼けることのある山が須川嶽であり、現在の剱嶽一帯を指しています。栗駒山の火山活動については巻之五、二十にも宝暦8年(1758)に花山村鬼首村で山鳴りと地震があったことを書いています。

『奥州仙台領遠見記』(20)

『奥州里諺集』と同じ著者が1762年に書いた本で、仙台領境を中心に2冊にまとめています。("オウシュウセンダイリョウトオミキ" と読む)
栗駒山の項はありませんが、巻之上の鬼首に禿岳の花立峠から栗駒山を見ています。「山合に西岩井東山の室根山三迫沼倉松倉の駒ヶ嶽見ゆる」と書いています。

安永年間の『風土記御用書出』(21)

仙台藩では安永2年(1773)から9年(1780)頃にかけて、各邑 (村) の肝入から風土記御用書出という、邑内実況の調査書を提出させました。これは風土記としては完成せず、仙台藩から県に引き継がれたものの大部分が県図書館に現存します。宮城県史編纂にともなって調査され、資料編として23巻から28巻に収められています。栗駒山については安永6年(1777)に書かれた『栗原郡沼倉村風土記御用書出』に記載があります。

「一名所 一ツ
一栗駒山 駒ヶ嶽
御狩するくり駒山の鹿よりもひと
りぬる夜ハ悲しかりしり
いかてわが栗駒山のもみち葉を秋
ははつともいろかへて見む 」

「一山 二ツ
一大日嶽 高大數大道五里程
一駒ヶ嶽 高大數大道四里廿六丁程
但西ハ羽州仙北雄勝郡川向村之内小
安北ハ磐井郡西磐井郡五串村南ハ當
郡一迫花山村御境ニ御座候 (後略) 」

大日嶽と駒ヶ嶽への距離はどこから測ったものかわかりませんが、駒ヶ嶽が10丁 (約1.1 km) 手前なのがわかります。また、神社の項には駒ヶ嶽に駒形根神社、大日嶽に日宮としてい ます。

この他、羽黒派峰雲院の書出には「駒形山絵図一枚」が古い什物として記載しています。駒形根神社の里宮で、おそらく秘蔵品として今も伝えられているのでしょう。

菅江真澄の記録

江戸後期の国学者・紀行家として有名な菅江真澄が秋田藩にいた頃、1814年に檜山 (雄勝郡東成瀬村) から栗駒山に登っています。このときの日記が『駒形日記』(16)として残っています。このの中で朴木枕の和歌を引用し、栗駒山または駒嶽(コマガタケ) とも呼んでいます。赤川沿いに登り、大きな谷地 (湿原) に達したところで日記は終わっています。

この当時の写生帳『勝地臨毫雄勝郡』(22)には須川温泉や栗駒山頂付近が9枚の図に詳細に描かれています。表題の山名は統一されておらず駒形山、駒箇嶽、酸川嶽、駒形峯と書いています。しかし、現在の栗駒山頂1627.7mを大日嶽、駒形根神社 (御室) のある1573m峰を駒形嶽と説明しています。この他にも須川温泉から栗駒山頂にかけて様々な呼称が記されていて興味深いです。参照した『菅江真澄全集5』の写真が不鮮明なのが残念ですが、原本を見れば判官水や磐井峠と呼ばれた場所を特定できるでしょう。

この他、『雪の出羽路雄勝郡』に檜山台村を陸奥駒形山の麓とし、須川温泉が秋田領から仙台領へ変わった経緯を書いています。

『陸奥郡郷考』、その他

一関藩田村氏の儒学者、養賢關元龍が1824年に書いた『陸奥郡郷考』(23)には、郡名考の他に各郡の名所旧蹟を説明し、栗原郡に栗駒山が記載されています。「沼倉邑。俗に駒ヶ岳と称する。神名帳所謂駒形根神社あり。膽澤郡駒ヶ岳あり。山勢相接す。其栗原に在を以て栗駒と称するか。」 下巻にある総郡略図をみても栗原、磐井、膽澤の西に跨がる山を駒箇嶽としています。一関市内から見える栗駒山 (須川岳) も、著者にとっては文献上の山だったのでしょうか。

仙台藩の養賢堂指南役、吉田友好が1857年に書いた『仙台金石志』の付録巻二(24)に封内名蹟拾遺があります。この栗駒山駒形神社の項には「膽澤郡西根村」とあり、『聞老志』が引用されています。この他、仙台塩釜西ノ町の菅原陳之という人が書いた『奥羽名所』(25) (年代不明) にも膽澤郡に栗駒山の記述があります。

このように、現地を踏まずに文献から書かれた名所旧蹟の記載は混乱しています。江戸時代において『聞老志』の影響がいかに強かったかがわかります。また、文献の多くを写本に頼った時代では、ある程度しかたないことでした。

『栗駒山紀行』(26)

江戸末期、栗原郡大川口邑の上遠野(カドウノ)秀宣は1862年に駒形根神社に参詣したときの記録が『栗駒山紀行』として残っています。挿入された7葉の概念図には当時の地名が詳細に書き込まれています。栗駒山全景縮図では雪形駒の現れる1573m峰をオコマカタケ、栗駒山頂1627.7mを大日嶽とし、虚空蔵タケと須川タケも記載しています。つまり、これらを含む「御山」を栗駒山としています。例えば、大日嶽を次のように書いています。「それをとふり行ば大日嶽といへる第一の高嶺に登る。この処まで松わたりなり。栗駒第一の高嶺にして (後略) 」

いくつかのピークを含めた山全体の呼称としては、雪形駒をあらわす駒ヶ岳では都合が悪いのかもしれません。菅江真澄が駒形山とした山体の名称が、この頃には栗駒山として完全に定着していました。しかし、現在のように最高峰だけの名称ではありませんでした。

9.明治以降の栗駒山

明治以降、地形図が完備されると、再び山名の整理が行われます。大量に印刷され、誰でも入手出来る地図は江戸時代に書かれた地誌などとは較べようもない程の影響力をもっていまたし。縮尺という物理的な制約によって最高地点1627.7mを栗駒山と表記するようになったのです。

明治14年(1881)に宮城県が発行した「宮城県管内図」には栗駒嶽、1916年発行の地形図(1/50,000)には栗駒山 (須川岳) と記載されている。しかし以下に述べるように、信仰の山として栗駒山がある間、おそらく戦前までは大日岳や御駒ヶ岳が山名として残っていました。

『須川温泉記』

一関の高平真藤が明治25年(1892)に書いた「須川温泉記」(18)は、小冊子ながら当時の須川温泉の状況を詳細につたえています。このなかで栗駒山は大日嶽としており、須川温泉の湧き出る須川嶽と同じ山と書いています。

「◎大日嶽 (栗駒山)
大日嶽は即ち須川嶽にして (官林中にあり 即ち巌手宮城秋田の三縣に跨る境界なり。 宮城縣地方に之を栗駒山と稱せり。栗原郡 駒形根神社寄に因る名義なるへし) 駒ヶ嶽 とも稱し温泉場より舊道にでて…
    (中略)   」
駒形根と稱する續きの山は南面にして其所 にも石祠あり (邑人は大日詣御駒詣と稱し て大日詣は大日嶽、御駒詣は駒形根に登山 するを常例とす) さて駒形根へは・・・・
    (後略)   」

この本は須川温泉周辺の由来などと共に、山中名所も詳しく書かれています。現在では大日岩くらいしか知られていないませんが、旧名所を特定するのも面白いと思います。

『日本山嶽志』(27)

日本山岳会創立者の一人である高頭式が明治39年(1906)に書いた日本の山岳に関する集大成です。ここでは岩手県側からの「酢川嶽」となっており、別称として栗駒山や駒形山などが記載されています。巌美村の市野々原より四里十三町 (約17km) で頂上に達すると書かれています。これは、栗駒山が火山として認識されたことが原因のようです。1886年に日本の大部分の火山を初めて科学的に記載した英国人ミルンは"Sukawa-dake" と記し、それを利用した志賀重昂の「日本風景論」(1894)でも酢川嶽としています(28)。高頭式は当然これらを参考にしていたでしょう。また、水沢駅から七里離れた駒ヶ嶽に有名な駒形神社があるとも併記しているのは、仙台領の地誌の影響でしょうか。

別の項では「御駒山」を秋田県雄勝郡の檜山台から五里十八町のところにあると書いています。栗駒周辺の地形図は大正2年の測量となっているので、この本が書かれた当時は位置関係が整理されていなかったようです。深野さんが『神室岳』(29)で指摘しているように1/50,000地形図が一通り完成したあとの記述であれば、また違った書き方になっていたでしょう。

『栗原郡誌』(30)

大正7年(1918)に栗原郡教育委員会が編纂し、栗原郡の沿革、地理、産業などを書いた上編と各町村誌の下編で構成されています。栗原郡名の由来や歴史については、豊富な資料を使って説明しています。また、藩政時代の様子も詳しく書かれています。しかし、皇室との関係に章を設けるなど、本書が書かれた時代的な背景を感じます。従って、同郷の伊治公呰麿呂の乱にしても全く夷賊の反乱としています。

栗駒山については下編の栗駒村の名所旧蹟に「霊峰栗駒山」として記載されています。栗駒山は一名須川岳ともいい、絶頂を大日岳としています。また、駒形根神社に参拝する人々の様子の記述があり、1年の平均登山者数は約2千人、沼倉から山頂に登り須川温泉に一泊する2日行程だったようです。山案内の先達を業とするものが村内に15人程いて、案内料は貮円とあります。古歌の引用もありますが、伊達吉村の和歌まで夫木集としているのは筆がすべったのでしょう。

「真白にあしけに見ゆる駒形根
かん強くして雪の早さよ
仙臺候 伊達吉村」

『宮城県名勝地誌』(31)

昭和6年(1931)に宮城県教育委員会から出版された。ここでは、自然という項目で蔵王や船形とともに「栗駒火山」として記載されています。これは1908年の震災予防調査会報告が基になっています。栗駒火山と呼んでいる理由を「駒ヶ岳酢川岳の別名があるが、駒ヶ岳と言ふ名は北方同一山脈内に二つあるので」としています。栗駒山の火山活動と地形を説明する中で、外輪山の最高峰1628米を大日岳、その西を御駒と呼んでいます。

『奥羽の名山』(32)

昭和15年に出版された本書は、栗駒山に関する最初の登山ガイドになるかもしれません。著者の三田尾松太郎氏がいつ登ったかは記されていませんが、戦時色の濃くなった暑い夏だったようです。駒の湯から現在の御沢コースから頂上に登り、裏掛コースを降りています。この頃、皇軍武運祈願のため相当数の青少年団や女学生が栗駒山に登っていたのがわかります。

栗駒山の認識は「栗駒山は大日、駒、虚空蔵の三嶽より成る」と書いています。また、別の箇所では「栗駒山は三縣に跨がり、宮城縣では栗駒山、岩手縣では酢川嶽、秋田縣では大日嶽と、三縣三様に呼稱してゐる」と紹介しています。現在でもガイド・ブックや地名辞典などに、大日岳が秋田側固有の呼称だったとする記載をよくみますが、最高峰1627.7mの山名としては、これまで見てきたように三県共通の呼称でした。

10.栗駒山名の定着過程

これまで地誌、紀行などに現れた栗駒山名を個々に見てきましたが、歌枕名所をキーワードとして、次のような定着過程を考えることが出来ます。

(1) 栗駒山の地域認識として生じた山名は、駒ヶ岳と須川岳だった。胆沢郡にも駒ヶ岳があり、同じ仙台領内に複数の駒ヶ岳が存在していた。

(2) 仙台領内の歌枕名所を再整備する文化的気運が生じた。この中に古今和歌六帖や夫木和歌抄などにとりあげられた「くりこま」もあった。 (再整備は仙台藩に限らず全国的なものだった)

(3) 胆沢郡・駒ヶ岳として再整備された名所「栗駒山」は、栗の字によって栗原郡・駒ヶ岳として再び整備された。

(4) 山岳信仰の対象して一般化すると、祭祀する大日如来にちなんだ大日岳が駒ヶ岳とは別に認識されるようになった。栗駒山は山体の総称として定着した。地域認識として生じた栗駒山北面を指す須川岳 (酢川岳) の呼称は変化していない。

(5) 地形図作成の便宜のため、山名が栗駒山と須川岳に整理された。やがて、須川岳の名前が消え、栗駒山に統一される。これが最高峰を指す呼称として定着して現在にいたる。

「宮城県地名考」(33)では、駒ヶ岳の山名は所々にあるので、他と区別するため、栗原郡の北方に聳える名山なので、栗駒山と呼ぶようになった、と書かれています。これまで述べた経緯から間違いではありませんが、歌枕名所としての意味が含まれていません。しかし、栗駒山の山名の由来を歌枕だけとするのも正しくなく、再整備の過程が含まれていないからです。

戦後から現在までの夥しい出版物を加えれば、栗駒山名は完全に定着したといえます。しかし、須川岳という山名も地域認識としてありましたが、一関市内の学校で校歌に歌われる程度にしか残らないのでしょうか。栗駒山という心地好い山名が定着した経緯を追ってみると、中央指向による地域文化の合理化だったように思えます。地域の人々によって受け継がれた山名が、ここで取り上げた地誌、紀行等が成立するはるか以前からあったことを考えると、栗駒山名の歴史はまだ浅いのかもしれません。

(1993.1/4)

【参考資料】

(1) 田淵行男『黄色いテント』 実業之日本社 1985年p.349-p.354 "雪形「駒」勢揃い”
(2) 茂木徳郎『和歌』 (宮城県史14) 昭和33年
(3) 金沢規推『歌枕意識の変貌とその定着過程』 (宮城の研究5) 清文堂 昭和58年
(4) 佐久間洞巌『奥羽観蹟聞老志』 (仙台叢書、第15、16巻) 宝文堂 昭和47年
(5) 『新編・国歌大観 (第二巻)』私撰集編 角川書店 昭和59年
(6) 『新編・国歌大観 (第三巻)』私歌集編 角川音店 昭和60年
(7) 『新縞・国歌大観 (第五巻)』 角川書店 昭柘62年
(8) 『圖書寮叢刊・古今和歌六帖 (上巻)』本文編 養徳社 昭和44年
(9) 『圖書寮叢刊・古今和歌六帖 (下巻)』索引・校異編 養徳社 昭44年
(10)『校注・国歌大系第二十一巻』夫木和歌集 (上巻) 国民図書 昭和5年
(11)『校注・国歌大系第二十二巻』夫木和歌集 (下巻) 国民図書 昭和5年
(12)『仙台名所記』 (著者不明) 元禄八年の写本 宮城県図書館蔵書
  『仙台名所記』 (仙臺郷土史研究) 238 仙台郷土史研究会 平成元年 pp.40-47
(13) S藤信要『封内名蹟志』 (仙台叢書 第8巻) 宝文堂 昭和47年
(14) 日本自然保護協会東北支部編『自然の栗駒-生物-』 宮城県栗駒開発連格協議会 昭和42年
  p.9にブナ林の組成があるが、大地森下750m+とあるだけで、他の調査地は空白である。
(15) 里見藤右衛門『封内土産考』 (仙台叢書 第3巻) 宝文堂 昭和47年 p.419-p.463
(16) 菅江真澄『駒形日記』 (菅江真澄遊覧記5) 東洋文庫119 平凡社 昭和43年 p.1940-p.196
(17) 田辺希文『封内風土記、第1~3巻』 (仙台叢書) 宝文堂 昭和50年
(18) 高平真藤『須川温泉記』 明治25年 宮城県図書館蔵書
(19)『奥州里諺集』 (宮城県図書館資科2) 古文書を読む会 昭和54年
(20)『仙台領遠見記』 (宮城県図書館資科1) 古文書を読む会 昭和53年
(21)『風土記御用書出』 (宮城県史23~28) 昭和29~36年、栗原郡は25巻に記載
(22) 菅江真澄『勝地臨毫』 (菅江真澄全集5) 未来社 昭和50年
(23) 関元龍輯『陸奥郡名考』 (仙台叢書 第11巻) 宝文堂 昭和47年 p.411-p.412
(24) 吉田友好『仙台金石志』 (仙台叢書 第13,14巻) 宝文堂 昭和47年
(25) 菅原陳之『奥羽名所』 自筆本 年代不詳、宮城県図書館蔵書
(26) 上遠野秀宣『栗駒山紀行』 自筆本 文久2年、斎藤報恩会自然史博物館蔵書
(27) 高頭式『日本山嶽志』 博文館 明治39年
(28) 米地文夫『地域からの地域認識-須川岳の名を例として-』 (いわて地域科学5) 1991
(29) 深野稔生『神室岳』 日伸書房 1983年
(30) 栗原郡教育委員会『栗原郡誌』 大正7年
(31) 宮城縣教育委員会『宮城縣名勝地誌』 昭和6年
(32) 三田尾松太郎『奥羽の名山』 冨山房 昭和15年
(33) 菊地勝之助『宮城県地名考』 宝文堂 昭和45年

仙台YMCA山岳会『やまびと33号』掲載のものをno+e用に編集。

追記 (2023年10月18日)

栗原市観光物産協会が発行している『コ・シエル』というフリーペーパーを送って貰いました。栗駒山特集ですが「観光パンフレットに載っていないような栗駒山を特集したい」ということで盛りだくさんの内容です。30年程前に山岳会の会報に書いた記事を引用したいという連絡があって一部掲載されています。後半分のページは栗原市内の広告を掲載しているのですが、赤字にならないか心配です。


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