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栗駒山の湿原と池沼


1.はじめに

栗駒山では標高 700mから1400mの広い範囲に湿原が点在している。栗駒山に限らず、日本の山地の湿原は降雪量の多い第四紀の火山地域に集中する。豊富な湧水があり、水はけの悪い平坦地が出来やすいからである。東北の 1,000メートルを越える主な山は湿原が発達する条件を持つとも言える。栗駒山の他には蔵王や月山、秋田駒ヶ岳、八幡平などにまとまった湿原がある。図1に栗駒山の湿原と池沼の水平分布を示す。しかし、湿原の水湿条件は地形や地質、冬期の気象条件などに影響されるため、栗駒山全体で見ればその分布は一様ではない。それぞれの湿原の雰囲気も異なっている。

ここでは、いままで行った栗駒山の湿原や池沼の踏査を、次の6つの区域に分けて整理した。踏査日はそれぞれ異なり、沢の源頭や支流の湿原は1989~1992年に沢の踏査に付随して訪れた。1993年に栗駒山の特集の一環として湿原をまとめることになった。このため未踏査だった道路や登山道に比較的近い湿原をまとめて歩いた。また、いくつかの湿原については記憶が不正確だったので再踏査した。それぞれの景観を積み重ねることによって、栗駒山の湿原と池沼の特徴をまとめてみたいいと思う。

図1.栗駒山の湿原と池沼分布図

(A) 田代沢および秣岳西方
 A-1 田代小屋湿原
 A-2 小田代沢上田代
 A-3 小田代沢下田代
 A-4 板井沢支流C930湿原
 A-5 西方浄土
 A-6 赤沢湿原
 A-7 田代沼
 A-8 田代沼 (道路標識)

(B) 秣岳~御駒ヶ岳
 B-1 田代沢湿原
 B-2 秣湿原
 B-3 麝香熊沢湿原
 B-4 小桧沢湿原

(C) 東栗駒~笊森周辺
 C-1 ドゾウ沢湿原
 C-2 笊森湿原
 C-3 石滑沢小湿原
 C-4 一ツ石沢右俣小湿原
 C-5 旧道分岐小湿原
 C-6 双子池
 C-7 ロプノール

(D) 栗駒北西面
 D-1 仁郷沢右俣湿原
 D-2 仁郷沢中俣湿原
 D-3 仁郷沢左俣湿原
 D-4 ハート池湿原
 D-5 瞳ヶ原
 D-6 龍泉ヶ原
 D-7 隠れ龍泉ヶ原
 D-8 名残ヶ原
 D-9 硫黄ヶ原
 D-10 裏沢湿原

(E) 須川温泉周辺
 E-1 東のかくれ谷地
 E-2 西のかくれ谷地
 E-3 下の淋原
 E-4 上の淋原
 E-5 だんだん谷地
 E-6 河原盆地
 E-7 ツンドラ湿原

(F) 世界谷地湿原
 F-1 第一世界谷地
 F-2 第二世界谷地

(※番号は図1に対応)

2.秣岳西方の湿原

秣岳西側の田代沢は、国道 398号線付近で大きく蛇行している。ここは秣岳から流れた溶岩流末端の下側にあたり、火山泥流に覆われた緩傾斜地になっている。この田代沢流域には田代沼北側と小田代沢源頭にヨシ湿原がある。田代沼の北側約1.5km の凹地にも沼があり、道路標識には田代沼と書かれている。宮城県側では麝香熊沢支流の赤沢にも湿原がある。一方、溶岩流末端上には西方浄土とよばれる比較的大きな湿原や板井沢支流にC930湿原がある。

図2.田代沢および秣岳西面概念図

田代小屋湿原と田代沼
花山峠を越えて国道 398号線を秋田県側に入ると、田代沢の手前で山側に鳥居が立っている。ヤブっぽい道を少し入ると見事な杉の巨木があり、根本にには厳重に鍵がかけられた小さな祠がある。かつての羽後岐街道はここを通過し、ここには「田代の御助小屋」が建っていた。

地形図にある田代沼の隣にある湿原は、小屋跡のすぐ南側にある。6月上旬に訪れたとき、湿原のほとんどをコバイケイソウの若芽がぎっしりと覆っていた。沢沿いにはミズバショウが多く、わずかに盛り上がった中央部にリュウキンカが黄色い花を咲かせている。ヨシの枯れた茎がたくさんあり、しばらくすれば一面ヨシに覆われるのだろう。

田代沼

沢沿いに登って行くと、すぐに田代沼に出る。池の北側にはミツガシワがあり、周囲はネマガリのヤブである。南西の岸が草原状になっているのが見える。享保14年(1729)年、田代長根とよばれた県境付近に仙臺領と秋田領との境を示す塚が設けられた。その痕跡がないかと西側の国道に向かってヤブを漕ぐが旧道の跡すらない。

小田代沢上田代と下田代
花山峠から1kmほど秋田県側の国道沿いには、小田代沢源頭のヨシ湿原が見える。地形図上の湿地記号と思ったが、よくみるとその上流の緩傾斜地である。とりあえずここを上田代とする。車を止めて降りてみると、枯れたヨシの間からミズバショウとリュウキンカが咲いてきれいだ。

下田代は国道から見えない。小田代沢沿いに降りる林道に入ると、やや黒ずんだ湿原が見える。周囲は伐採のために疎らに樹木が残るだけだ。あとから植林した杉に阻まれながら近づくと、黒ずんでいる理由がわかった。残雪の消えた直後だったために、高さ50~60cmのハイイヌツゲの葉が黒くスス状に汚れているのだ。周囲から内側に約10メートルはこのハイイヌツゲに覆われている。ヨシ湿原であることを確認しただけで、突然の雷雨のために横断はあきらめた。

板井沢支流C930湿原
溶岩流末端上にあるヌマガヤ湿原で、地形図には板井沢支流のC930m付近に湿地記号が記されている。すぐ近くを林道が通る。小田代沢の湿原を訪れた日だったが、途中で残雪に阻まれる。

沢に入るとヤブがうるさい。二回目の蛇行の途中で左岸にあがり、池塘がある小さな湿原にでる。雪が融けた直後で、ちょうどショウジョウバカマが一面に咲いている。ここもハイイヌツゲの進出が著しく、もともとの湿原の輪郭すらわからない。特に中央はヤブで分断されていて、足元のミズゴケで辛うじてつながっている。先程の小田代沢下田代と同じように、周囲の伐採が原因で湿原の乾燥化が進んでいることは素人の目にもあきらかだろう。

地形図の湿地記号に較べて小さいので、下山後に空中写真で確認すると、沢の右岸にも湿原があるようだ。

西方浄土
この湿原も溶岩流末端上にあるヌマガヤ湿原で、比較的大きな湿原である。秣岳山頂からもこの湿原の西端が見える。名称は西丸震哉氏の命名に従った。

秣岳の北側にある県境沿いの登山道から入ったが、途中で沢が途切れてしまうのでわかりにくい。また、沢床から2m程の高さがあるため、湿原独特の壁全体から滲みでる水に気がつかないと通り過ぎてしまいそうだ。東西方向に長さ約 250メートル、幅約50メートルのほぼ平坦な湿原で、中央部に直径10mの池塘がある。ほぼ地形図通りの形で、南側に細長い帯状にのびる部分がある。快晴の9月下旬だったので、黄金色に輝く草原とリンドウの紫がきれいだった。

西方浄土

麝香熊沢支流・赤沢湿原
地形図上に湿地記号が記されてあり、麝香熊沢支流にあたる赤沢の更に支流にある。しかし、こんなヤブ沢にも釣屋のゴミが捨てられているのには恐れ入った。

小沢は湿原に近づくと極端な蛇行がはじまりイライラさせられる。蛇行が終わって通り過ぎたことを知る。湿原に上がると、直径10メートル程の暗い感じの池がある。6月の岸辺の枝にはモリアオガエルの卵がすずなりにぶらさがっている。湿原そのものは、予想していたよりずっと灌木に覆われている。花が咲いていたウラジロヨウラクしか記憶に残っていない。中央に三日月型の池塘があり、ここにもモリアオガエルの卵がぶら下がっている。天気が良かったからまだいいが、少しがっかりだった。

赤沢湿原

以前、往復したF野会長の話ではミズナラの大木があったというが、わからなかった。赤沢に抜けるためにヤブを漕ぐと、すぐうえにはミズバショウの群落があった。

3.秣岳~御駒ヶ岳の湿原

秣岳から御駒ヶ岳にむかって稜線を歩くと田代沢源頭や C1400mピークからの下りにまとまった草原を見ることができる。その中に湿原がいくつかある。冬の間に季節風をまともに受ける秣岳一帯は、植物の成育条件が最も厳しいのかもしれない。栗駒山がブナに覆われる前に広く分布していたアオモリトドマツもこの稜線付近にだけ残っている。

この稜線付近には、他にも麝香熊沢源頭や小桧沢源頭に湿原がある。須川十字路から見えた御室の湿原は、最近の地滑りのために埋まってしまった。

図3.秣岳から御駒ヶ岳

田代沢湿原
1990年、栗駒の会山行に田代沢を選んだことがある。途中にありそうな大滝が目的だったが、稜線から見えたこの湿原にも興味があった。

田代沢の傾斜が急に緩んだところで右岸に上がると、直径6m程の池塘がある。周囲が赤いモウセンゴケに覆われてきれいだ。田代沢源頭は稜線まで草原となって続いている。この湿原はあまり大きくはなく、更に一段上の尾根上に上がると、小さな池塘のある湿原にでる。秣岳南西の尾根上で C1360~70mのコンターが緩んでいるところだ。ヌマガヤの間にタテヤマリンドウの小さな花がたくさん咲いている。

秣湿原
秣岳から御駒ヶ岳側に50m程下った鞍部にある湿原で、中央を登山道が横断している。標高1375m付近であるから、栗駒山の湿原としては最も高い位置にある。湿原の印象も他の湿原とは異なり、カワズスゲやイヌノハナヒゲなどのカヤツリグサ科の植物が多いためにすっきりしている。

さらに岩塊が散乱するピークを過ぎると、広い草原が広がる。直径60cmほどの島をもつ浅い池があり、西に下るとミズゴケが多くなる。湿原だったものが草原化したのかもしれない。草原の南端にも浅い池がある。

麝香熊沢湿原
地形図上には湿地記号がないが、秣岳と御駒ヶ岳の最低鞍部にある小ピークから、麝香熊沢源頭にパッチ状の湿原が見える。麝香熊沢を溯行して訪れると、麝香熊沢右俣の右岸支流に沿って三段に分かれている。この湿原の下流にも直径30m程の小湿原を見つけた。 C1240m付近の下段が一番大きく、ややヨシが多くヤブっぽいがいくつかの池塘がある。蛇行する小沢にかぶさるヤブが非常に煩くて散々な目にあったが、個人的に初めての栗駒の湿原だった。

麝香熊沢右俣の湿原

小桧沢湿原
須川十字路から湯浜コースを下ると虚空蔵山の西北に草原がある。小桧沢源頭の右岸の斜面に約400 メートルもつづいている。安易に設けたプラスチック製の歩道が変形しているために、非常に歩きにくい場所でもある。ここは傾斜がきつすぎるためか湿原にはなっていない。

この草原から登山道を少し下ると、やはり小桧沢支流の源頭が湿原になっている。直径40~50cmの池塘がいくつかあり、浅い池塘にはミツガシワやヌマハリイなどがある。湿原上には枯れたイワショウブやキンコウカが残っている。上の大草原に較べて傾斜がやや緩いのと、水流が地表を常に濡らしているために湿原化したのだろう。

このあたりから見える栗駒南西面の広大なブナ林は気持ちがいい。

消えた湿原? (御室湿原)
1989年7月、麝香熊沢湿原を訪れた帰りに夏道から御沢の源頭に湿原を見た。須川十字路から少し下ったところで、二つの池塘があったと記憶していた。地形図上にはそれらしいコンターの緩みはないが、1976年撮影の空中写真に写っている位置から推定できる。しかし、登山道から見えるせいもあって後回しになっていた。

1993年10月に稜線から見下ろすと、湿原らしいものはない。不思議に思いながら須川十字路から御沢を下降して、一本西側の支流に入る。すると、当然湿原があると思っていた C1420m付近のガレ記号の地点は岩屑だらけだ。植物がないことからそう古い崩壊ではないようだ。1時間程ヤブを漕いで周囲を一周してみた。結局、空中写真から推定した位置は、御沢の水線と下側の巨大な2個の岩塊からみて、この崩壊地に間違いないようだ。地すべりブロックの移動によって出来た凹地が湿原化していたのだろう。当然あると思っていた湿原が消滅してしまったのだから、狐につままれたような気分だ。

4.東栗駒および笊森周辺

東栗駒から栗駒北側の磐井川本流にかけては、規模の小さい湿原や池が散在している。東栗駒周辺の踏査がまだ完全ではないが、新湯沢源頭には豊富な残雪による草原が広がっており、中央コースから池塘のような池がいくつか見える。『やまびと29号』のS藤広史さんの報告では東栗駒山南面の新湯沢支流にも湿原があるようだ。また、空中写真では裏掛けコース C1220mピーク東に湿原が確認できる。これらは今後の課題として残っているが、以下にドゾウ沢から磐井川本流にかけての湿原と池沼をひろってみる。

図4.東栗駒から笊森周辺概念図

ドゾウ沢湿原
ドゾウ沢および産女川の源頭には、豊富な残雪のために草原がよく発達している。この間の尾根上 C1285m標高点の上に池塘をもつ湿原がある。

ドゾウ沢左岸の支流をつめて訪れたが、予想よりも早く水流が消え、強烈なヤブ漕ぎをすることになった。池塘は11個あり、浅い池塘のなかにはとり残されたような島がある。濃いガスの中だったが、池塘のまわりの赤いモウセンゴケが印象的だった。湿原からドゾウ沢源頭まで草原が続いている。

この湿原は空中写真を見てわかったもので地形図のコンターだけでわからなかっただろう。S藤さんに「他には無いでしょうね」とやや批難された。しかし、沢登りで1/25,000図と1/50,000図のどちらを使うかという議論と同じだと思っている。

笊森湿原
瑞山コース C1045m付近にある湿原で、池塘はなく、ウラジロヨウラクなどの低灌木の侵入ががめだつヌマガヤ湿原である。登山道にかかっている湿原の北端から東へヤブを漕ぐと、更に円形の湿原がある。

沢から訪れるとすると、西桂沢から右岸支流を詰めることになる。水線をきちんと入れずに源頭が湿原と思い込んでいたら、身を没するネマガリのヤブに入り込み、メンバーから冷たい視線を浴びたことがある。

なお、登山道を少し下ると手水鉢のような面白い岩がある。

ロプノール
瑞山コース C1021m付近から産女川側に半島のように張り出した尾根上の池で、C907mピークの南側にある。地形図ではこのピークは単一であるように書いているが、実際は土手状の3つのシワである。しかも、尾根に対して45度ずれているので騙されやすい。

3度目にやっと着いたこともあって、印象深い池だ。周辺部の深さは40~50cmで、中央もせいぜい腰までだろう。静寂そのものの小宇宙で、F野会長が「石仏を祭りたくなる」という気も分かる。帰りがけに、ドゾウ沢と産女川間の尾根の紅葉を撮ろう思い、振り返るとメタンガスの泡がいつまでも残っていた。

ロプノールからドゾウ沢左岸尾根

石滑沢小湿原
一ツ石沢のC750m付近に造瀑帯があり、この沢で唯一のゴルジュ帯がある。右岸から6mの滝になって入る支流を「石滑沢」と勝手に呼んでいるが、地形図にはこの支流の先に書かれた湿地記号がある。

ナメ床の小沢をたどって行くと、水流はヤブの中にかくれてしまう。右岸のヤブをさんざん漕ぎまわった末、偵察に登った木の上から見つける。予想よりずいぶん小さい直径20m程の円形のヨシ湿原で、ヨシは人の背より高く伸びている。しかし、足元のモコモコしたミズゴケがやけに鮮やかで、雨の中でも明るい気分だった。

一ツ石沢支流・石滑沢小湿原

数年後、スキーで笊森から西桂沢左岸の尾根に滑り込んだことがある。葉の落ちたブナ林の中に、ポッカリと白く開けたこの湿原が意外に大きく見えた。

一ツ石沢右俣小湿原
一ツ石沢右俣をつめると尾根上の C1187mピーク南側に出る。水流は平坦な尾根上にしばらく続いていて、右岸の湿原特有の水がしみだす黒い壁を見つけた。はい上がるとワタスゲが点々とあるだけの地味な湿原だ。しかし、磐井川本流と左俣を分ける尾根が立派に見えて景観は悪くない。

一ツ石沢右俣の小湿原

沢はこの湿原の先ですぐ終わり、あとは強引なヤブ漕ぎで笊森避難小屋付近の C1399mピークまで行く。途中で、尾根の左側に大きな凹地がある。中央に岩が点在するだけで、湿原にはなっていない。

磐井川源頭の双子池周辺
笊森避難小屋から須川温泉に向かって瑞山コースを歩くと、途中の栗駒山分岐点に小さな池がある。1/25,000地形図には西側にも同じような池がある。岩手県の須川街道調査報告書で「男沼女沼」と呼んでいるのはこの池だろう。

同じ磐井川本流の左岸尾根で C1300m前後に二つならんで書かれた池を「双子池」と仮りに呼ぶ。磐井川本流を溯行したとき、沢通しに夏道に出るのもつまらないので、この池をめがけて支流に入った。最初は北奥の滝を越えた最初の左岸支流に入って失敗した。2度目はまじめに水線を入れて左岸支流に入ると、池のある分岐にそのまま出てしまう。再度ヤブに突入し、トラバース気味に戻ると、水深は50~60cm程の浅い池に出る。低い灌木に囲まれているが、東側が開けているので明るい感じがする。下側の池をめざすと50m程下に凹地が見える。底は湿原状になっているので、一年じゅう水は涸れているようだ。ヤブ漕ぎに疲れていたので、上から写真を撮っただけで引き返す。上の池から磐井川本流へ下ると、池の水は勢いよく地中から吹き出していた。

磐井川本流の左岸尾根

男沼女沼の分岐から栗駒山の間を歩いたことがなかったので、1993年秋の裏沢湿原の帰りにまわってみた。雨の中、池のある分岐点から栗駒山に向かうと、左の沢状に向かう踏跡がある。見ると沢状の窪地に細長い湿原があり、池塘が3つ程見える。思いがけない発見でうれしかった。しかし、地形図に書かれた C1410mの池はガスでわからなかった。

5.栗駒北西面の湿原

栗駒火山の最後の活動期には栗駒山北西の剣岳周辺が噴出している。剣岳を中心として直径3kmの旧火口原が広がっているが、剣岳が噴出する以前の大規模な水蒸気爆発によって山体が失われた跡らしい。この一帯は栗駒山でも特に湿原の密度が高い。

秣岳から御駒ヶ岳と小仁郷沢

栗駒山で最大の湿原である龍泉ヶ原もここに含まれる。この地域を大きく3つに分けてみる。
(1)仁郷沢源頭と小仁郷沢右岸の一部。剣岳西尾根の急崖の下側で、剣岳の噴出以前の火口原に点在する湿原群。
(2)龍泉ヶ原周辺。龍泉ヶ原と剣岳から緩やかに西に伸びる尾根上の湿原。F野会長の詳細な報告が『やまびと30号』にある。
(3)三途の川およびゼッタ沢源頭。この沢にはさまれた尾根上には、地形図に書かれなかった湿原が2つある。また、名残ヶ原周辺にも湿原が点在する。

図5.栗駒北西面の湿原概念図

5.1 仁郷沢源頭と小仁郷沢周辺

仁郷沢右俣湿原 (1162湿原)
栗駒有料道路から仁郷沢に下りて30分程歩くと左俣をわける。ここから中俣と右俣の分岐までのあいだに、粘土質の泥壁が右岸に露出している。この不透水層が仁郷沢源頭および小仁郷沢右岸を広く覆っているのだろう。

右俣は小滝になって流れ込み、すぐに蛇行を始める。右岸の踏跡の先には小さな湿原がある。すぐに地形図上にでる。湿原の南側を沢が流れ、池塘の多くは中央の沢側にある。一部は水流にそって堀りこまれている。中央を横断して小さな尾根を越えると、すぐに小仁郷沢側のハート池湿原にでる。

仁郷沢中俣湿原
瞳ヶ原からY田君と、地形図に書かれた中俣源頭の湿原を目指したことがある。わずかな距離だと思っていたら、ヤブは深くなるばかりで、とうとう左俣源頭との境の尾根にぶっかった。この時点では湿地記号は誤りだと思っていた。

1993年6月に中俣に入った。途中で地形図にある沼を捜してヤブを漕いでみた。会長が「幻の・・・・」と書いていた沼だ。右岸から尾根を越えて行くと、それらしい地形のところに出た。コバイケイソウが低い灌木の間にあるだけで、少なくともここ数年は水が溜まった様子はない。やっぱりこの沼も誤りのようだ。

中俣にもどり源頭に向かう。剣岳から続く壁が正面に迫ってきたので、左岸に上がってみる。遠くのブナがなんとなく透けて見えるのでヤブを漕ぐ。直径20メートル程の小さな湿原にでたが、地形図よりはずっと小さい。イモリのいる暗い池塘と小さな池塘がある。 西端に地竹採りの踏跡があった。それを行くと、10分程で何の苦労もなく瞳ヶ原の東端に出た。地竹採りの二人連れがいた。あまり気分は良くないが、ザックの雨蓋一杯に採った地竹があるので人のことは言えない・・・・。

仁郷沢左俣湿原
ここを訪れたときは、中俣源頭から尾根を越えて行った。途中にはドロッとした小さな沼がある。沢がはっきりしてくると、湿原の西側の沢に出る。湿原からは剣岳の剣岩 (ローソク岩) が間近に見える。すでにいくつかの湿原を回ったあとだったので、池塘もない平凡な原は印象が薄い。剣岳側の南端は泥が干上がっていた。

ここから東側の尾根を越えて、赤川源頭にでる。途中から小さな踏跡があり、尾根上の湿原に出る。細長い湿原で、北側のミツガシワの池塘が湿原をふさいでいる程だ。ここから赤川源頭まで下る間にも、小さな湿原状が沢沿いにある。

小仁郷沢ハート池湿原
秣岳山頂から御駒ヶ岳方面を望むと、龍泉ヶ原や仁郷沢源頭の湿原を立体的に見ることが出来る。小仁郷沢右岸にあるこの湿原は、ハート型の大きな池があるのですぐわかる。 この湿原に実際に行ってみると、あまり明るい印象は受けない。この池が暗いのと、周囲の深いブナ林のせいだろう。南側には地竹採りの踏跡が沢まで続いている。

小仁郷沢瞳ヶ原 (1202湿原)
ハート池湿原から小仁郷沢に戻り、数分も溯ると右岸から支流が入る。この支流の源頭にある東西に長い湿原を瞳ヶ原と勝手に呼んでいる。空中写真を見ていて、無数にある池塘の輝きに引きつけられてしまった。

実際に訪れてみると、池塘は特に傾斜の強い西側に集中している。池塘を区切るケルミもよく発達しているようだ。また、ミツガシワもここに多い。東側には小島のある池塘があり、周囲にも割れ目のような池塘が散在する。ちょっと見ると浅い水たまりだが、足で探ってみると深い。膝まで入れても底には届かない。なお、仁郷沢中俣湿原から踏跡は、こちら側からではわかり難い。

小仁郷沢C1202北側の湿原(瞳ヶ原)

地竹取りと湿原
6月の中旬頃の須川温泉周辺は、一年中で一番賑わう季節かもしれない。地竹 (ネマガリ竹の竹の子) 採れる唯一の季節だからだ。路肩には夥しい数の近県ナンバーの車が停まっている。栗駒有料道路をゲコ足でヘルメットをぶら下げて歩いてたら、アイスクリーム売りのオバサンに呼び止められた。地竹採りも道路の周辺でゴソゴソやっている分にはのどかなものだ。

仁郷沢では加山雄三の歌が突然聞こえてきてびっくりしたが、木にぶら下げたラジオを中心に地竹を採っているようだ。夢中になって採っていると方向感覚がマヒするのでいいアイディアだ。熊避けと一石二鳥なのだろうか。しかし、こういうセミプロは池塘の中に平気で空き缶を捨ててゆく。仁郷沢中俣湿原では、木の枝にさしてあるのもいれて、10個以上落ちていた。瞳ヶ原の池塘には新聞紙が捨ててあっし、破れたカッパを木に縛りつけて目印にしているのも何度か見た。どうも釣屋と同じ習性があるようだ。

最初に仁郷沢周辺の湿原を訪れたとき、ヤブの中に踏跡があるので不思議だった。しかしそれは当然のことだった。この賑わいは、地竹の採れるわずか半月程で終わってしまうからだ。

5.2 龍泉ヶ原とその周辺

龍泉ヶ原
栗駒山でもっとも美しい景観の一つは、御駒ヶ岳から見た龍泉池の池塘群だと思う。御駒ヶ岳の北斜面と剣岳から続く緩い尾根にはさまれ、東西 600メートル、西側の最も広いところで約 120メートルの幅がある。剣岳一帯の帯状の噴出によって出来た栗駒最大の湿原だ。小仁郷沢上部には真っ黒な溶岩が露出している。

戦後間もない頃に栗駒を歩いた西丸震哉氏は、この湿原を「おどりば谷地」と呼んでいる。秣岳から眺めると、ゆったりした御駒ヶ岳と仁郷沢源頭の中間にある、つまり踊り場にある湿原となる。一直線に上がっている小仁郷沢は階段にも見える。正枝さんに言わせれば「風の谷のナウシカ」の世界である。

小仁郷沢を詰めてゆくと、急にまわりが明るくなって湿原の西端にでる。右岸に上がると浅い池塘が散在する。6月中旬であれば、イワイチョウの丸い葉の間にイワカガミやハクサンチドリ、タテヤマリンドウの花が見れる。低灌木ではウラジロヨウラクとイヌツゲが目についた。すぐに龍泉池がある。直径20~30mの大きな池で、ミズゴケに覆われた縁はツボ型に落ち込んでいる。まさに典型的な池塘なのだが、この湿原の他の池塘が全て浅いことを考えると、なにか構造的な成因の池と思われる。

小仁郷沢の源頭は龍泉ヶ原の中央を蛇行しながら横断し、緩やかな分水嶺で消える。地形図でみる県境は、ここで唯一分水嶺を無視している。他に、隠れ龍泉ヶ原と中央部で御駒ヶ岳側から流入する小沢がある。沢沿いに一面にある葉はシロバナトウウチソウだろうか。湿原の中央には、白いヒナザクラが直径1メートル程の群落を作っている。ガスの中に点々と見えるその白い塊が、幻想的な風景を作っていた。しかし、ここに来るのはこれで終わりにしよう。そう思わせる痛々しい踏跡が、真っ直ぐ昭和湖に向かって続いていた。

御駒ヶ岳から見る龍泉ヶ原

隠れ龍泉ヶ原
龍泉ヶ原の西側 C1379ピーク南側にある湿原で、龍泉ヶ原より標高が30m程高い。流入する沢はなく、龍泉ヶ原に通じる沢の出口は分厚いミズゴケに覆われている。東西に遮るものがないので開放的で明るい。無数にある大小の池塘はいずれも深さが10~20cmの浅いものだ。

西側に下った小仁郷沢支流にも、腎臓のように2つ並んだ湿原があると会長が報告している。

剣岳西尾根の池沼群
龍泉ヶ原の北側には剣岳から西にのびる幅の広い尾根がある。1/25,000地形図からは、この尾根の中央に沢状の凹部が読み取れる。スキーで龍泉ヶ原を訪れたときにも、この凹部が連続しているのが見えた。大きな岩が点在していることから、この尾根全体が帯状に噴出したようにも思える。

F野会長が1990年8月に行った踏査では、合計11個の凹部を確認している (『やまびと31号』(p.86)図9参照) 。このうち、剣岳(C1397ピークの南西峰) のやや南にある池記号(3号の池) は地形図にも記載されている。昭和6年に発行された『宮城縣名勝地誌』には「南北三十米、東西二十米、深さ十米」とあり、剣沼と呼んでいることが書いてある。 西丸震哉氏は航空写真で見た印象から「竜の足跡」と付けているが、無雪期には訪れていないようだ。わたしも1号池塘から剣沼を見ただけで、この密藪を漕ごうという気力は起きなかった。

5.3 ゼッタ沢周辺の湿原

昭和湖周辺
昭和湖は1944年11月20日の活動によって生じた火口湖である。噴火以前の地形図では、昭和湖の位置に湿地記号があり、周辺の地形はあまり変化がない。従って、いわゆる噴火というよりも、泥土が吹き飛ばされたあとに水が溜まったのだろう。昭和湖の北側と東側には池塘が残っている。周辺の剥き出しになった砂礫の上にも、よく見るとイワイチョウやワタスゲ、モウセンゴケがたくさんある。ゆっくりではあるが再び湿原化に向かっているのだろう。

名残ヶ原とその周辺
名残ヶ原はすでに須川の遊歩道の圏内であるため、いつも足を早めて通り過ぎた記憶しかない。木道のためか、乾燥化が進んでおりヨシがめだつ。それでも6月中旬にはイワカガミが一斉に咲き揃い、それなりに美しい。名残ヶ原から流れるゼッタ沢支流には、隠れた湿原がいくつかあるようだ。いずれ磐井川から支流を詰めて訪れてみたい。

直接湿原には関係ないが、名残ヶ原南側のゼッタ沢支流には、人工的とも思える石積みがあって面白い。この沢の上流の八幡山の下にも湿原がある。

硫黄ヶ原
須川コースを下ってくると、昭和湖の手前で三途の川左岸に広い湿原を見ることが出来る。地形図で見ると、昭和湖と C1314ピークをはさんで東側の池記号の位置にある。すぐそばのゼッタ沢源頭は亜硫酸ガスが吹き出していて立ち入り禁止の所だ。湿原にいても風向きによっては硫黄の臭気があるので、勝手に硫黄ヶ原と呼んでいる。

硫黄ヶ原、遠くに焼石が見える

湿原は南北に長く、形は細身の瓢箪に似ている。池記号が上のふくらみにあたり、全長は約 300メートルある。三途の川から詰めて行き、沢から薄いヤブを10メートルも漕ぐと湿原の東側に出る。池記号はミツガシワに覆われた浅い池塘で、真っ赤になるほどのモウセンゴケに縁取られている。ミツガシワの花が満開の頃を見たいと思っているのだが、行くたびにはずれている。

瓢箪のくびれたところにイモリのいる小さな池がある。ここから下の緩傾斜面は、直径1~3メートルの池塘が散在するヌマガヤの傾斜湿原になっている。7月中旬に訪れたときに栗駒で初めてサワランを見た。排水路はゼッタ沢側で、笊森コース分岐にある小湿原付近のようだ。

裏沢湿原
ゼッタ沢と三途の川にはさまれた硫黄ヶ原と同じ尾根にある。地形図で見ると C1232ピーク下部に沢が流れていて、草地記号が書かいてある。以前から気になっていたのだが、最近この周辺の空中写真を入手した。この支沢の右岸には明らかに湿原があるようだ。

この湿原に1日をあてる余裕もないので、登山道から C1232ピークに向かってヤブを漕ぐ。途中、ナタで切り開いて泊まったような跡があった。尾根から急降下すると急な草原にでる。ひとつやぶを潜るとミズゴケのある湿原になった。支沢の右岸が 200メートル以上も湿原になって続いている。傾斜は急で、湿原の幅は20~30メートル程しかない。もっとも典型的な傾斜湿原といえるだろう。途中で右岸上部の直径40メートル程の平坦な湿原にかろうじてつながっている。この中央と北端に池塘がある。10月初旬の湿原にはウメバチソウの花だけがあった。

帰途は密ヤブをトラバースして、三途の川に降りてから登山道に戻った。とりあえずこの湿原があった支流を裏沢と呼ぶことにする。

6.須川温泉周辺の湿原

須川温泉の雑踏にまぎれて影が薄くなっているが、栗駒有料道路や野鳥の森周辺にも美しい湿原が点在する。かつて菅江真澄が『駒形日記』のなかで「大谷地のぐちゃぐちゃした道をふみぬかりながらきて」と書いたのもこれらの湿原のいずれかである。西丸震哉氏もこの周辺を踏査していて、『山とお化けと自然界』 (中公文庫 ニ-66)に概念図を掲載している。ここでは主にそこに記載された湿原の名称を使っている。 (概念図は図5を参照)

東のかくれ谷地
1/25,000地形図では、県境の C1005標高点付近に池記号のある湿原がこれだ。野鳥の森入口に車を停めて東に向かってヤブを漕ぐ。すぐに地竹採りの踏跡を見つけた。湯尻沢側のもう一つの湿原に続いているようだ。適当なところから再びヤブに突入して湿原南側にでる。

直径30~40メートルのほぼ円形の湿原で、三日月状の池塘がぐるっと南側を取り巻いている。面白いのは途中に突き出した浮島状の半島だ。中央側で1m程切れているのだが、渡るために体重を先端にかけるとズブズブ沈んでゆく。中央にも2つの池塘があり、湿原全体がミズゴケで盛り上がっている。6月中旬の雪解けによる地下水が豊富な時期だが、足の甲が水に没するほどモコモコしたミズゴケだ。

東のかくれ谷地

西のかくれ谷地
野鳥の森入口から赤川を渡ってすぐの湿原で、地形図には2つの池記号がある。実際に行ってみると、この池は水路でつながっている。湿原の大部分はこの池が占めていて、水は非常に澄んでいる。南西側にある丸い池塘から湧水がながれ込んでいるが、このためだろう。

下の淋原
野鳥の森の歩道を西に向かうと、左側にミズバショウの大群落がある。地形図ではC990標高点のあるところで、須川湖に向かう道が分岐している。下の淋原は、歩道の反対側に広がる長さ 160m程の湿原で、池塘が非常に多い。低灌木の侵入が多いので、あまり広さは感じられない。訪れた6月中旬はミズバショウが多かった。歩道は仁郷沢にそのまま続いているようだ。

下の淋原

上の淋原
下の淋原から須川湖に向かう歩道を少し行くと更に大きな湿原にでる。西丸氏の概念図には湿原のマークだけで、特に名前はふっていない。元になった『山だ原始人だ幽霊だ』の挿絵で「下の淋原」と書いていところが、文庫版では「淋原」となっている。下があるのだから、ここはやはり上とするのが適切だろうし、一人でこの湿原を見ていると淋原という名前がぴったりくる。

木道から見ただけではこの湿原の全容が見えないが、空中写真で見ると東西に長さ 400m近くある大きな湿原だ。歩道のある東側と反対の仁郷沢側に池塘が点在している。誰にも会わない原は、須川温泉周辺の雑踏に較べるとあまりにも静かだ。足元には薄紫色のタテヤマリンドウがたくさん咲いている。西丸氏が見たこの湿原の風景には人為的な痕跡などなかったのだろう。羨ましいと思う。

だんだん谷地
淋原から赤川の野鳥の森入口置いた車に戻る途中、歩道の北側のヤブ越しに湿原が見えたので降りてみた。融雪直後のビチャビチャした湿原は、池塘が段々畑のよう下まで続く典型的な指紋状パターンを示している。

湿原の上部には深さ5~10cm程の浅いくぼみがたくさんある。たぶん融雪期だけなのだろうが、そこにも水が溜まっている。いずれこの小さな凹部が植物の成長差を助長し、下側のような湛水シュレンケに発達してゆくのだろう。

だんだん谷地

河原盆地
栗駒有料道路の須川温泉側ゲート付近からグラウンドのような裸地がある。最近になって公園として整備(?) され、西側の池塘のある湿原に木道が敷設された。しかも、裸地には「芝生」が植えられている。河原という名前を付けたところから、土砂の流入は以前から続いていたと思われる。

ツンドラ湿原 (泥炭地)
須川湖の近くに「泥炭地」と書かれた道路標識があり、道に沿って 250m程入ると比高3メートル程の泥炭層が露出している。泥炭地と湿原は一般的にほぼ同義語であって、泥炭地の植生に着目する場合に湿原と言っている。この湿原の場合は泥炭層が主ということになる。『栗駒国定公園および県立自然公園旭山学術調査報告書』 (1983年宮城県保健環境部環境保全課) では、道路標識にある泥炭地をツンドラ湿原と記載している。1986年に初めて父母と訪れたときには、泥炭層が見えるだけだった。最近は上の湿原まで木道が敷設されたため、湿原の構造を立体的に見ることができる。

しかし、どうして泥炭層が露出しているのだろうか。『尾瀬ヶ原の自然史』に次のように記載されている。「水素イオン濃度が 3.0~3.4 の火山性の湧水によって沼鉄鉱床が形成され、その西半分は1958年頃まで採掘されていた」。意外にも人為的なものだった。

7.世界谷地湿原

世界谷地湿原は、栗駒山の寄生火山である大地森と揚石山、秣森の鞍部にひろがり、大小8つの湿原で構成される。世界谷地の名称は、もともと「西花谷地」とよんでいたものが転訛したらしい。栗駒を代表する湿原として観光化が進んでいて、下田代を第一世界谷地、上田代下谷地を第二世界谷地と呼んで木道を敷設している。一方では揚石山と川原小屋沢源頭部で大規模な伐採が行われている。これらは、世界谷地湿原の植生に少なからず影響を与えていると思われる。

宮城県では昭和57~58年度に世界谷地湿原の学術調査を行い、『世界谷地湿原学術調査報告書』 (1985年世界谷地湿原学術調査委員会編) を発行している。したがって、栗駒の湿原では最も且つ唯一情報量が豊富な地域である。

図6.世界谷地湿原概念図

第一世界谷地、第二世界谷地
第一世界谷地は標高 670mに位置し、三迫川支流冷沢に属する。東西約 350メートル、南北の最も長い所で約 200メートルある。しかし、木道のある中央部にはサラサドウダンやハイイヌツゲ等の低灌木やネズコの侵入が著しく、実際の広さに較べて狭く感じる。

第二世界谷地は標高 695mに位置し、同じく冷沢に属する。南北約 400メートル、幅約60メートルの細長い湿原だ。ここ数年の間にほぼ縦断する木道が敷設されたようだ。湿原からは、大地森の横に御沢源頭が独特な角度で見える。『栗駒山紀行』の挿絵で、上遠野秀宣が「御ヤマカクノゴクトニナナメニ見ユル」としたのは、この湿原から見ているのではないかと思われる。

世界谷地湿原の分類は中間湿原 (ヌマガヤ湿原) ということになっている。場所によってはヨシが混じっていたり、ミツワガシワが見られる。7月に咲くニッコウキスゲが地元では宣伝されているが、混雑を嫌っていまだに見たことがない。6月初旬に子供連れで訪れた際、木道の脇で弁当を広げていた。枯草の間にはフサフサした黄色っぽい地味な花がたくさんある。帰ってからそれがワタスゲの花だと知った。

世界谷地周辺の伐採状況
栗駒山の湿原としてみると、世界谷地湿原の標高は低く小田代沢源頭の湿原に近い。いずれも栗駒山の基盤を泥流堆積物がおおっている上に発達している。小田代沢一帯は伐採の影響で灌木の侵入が著しいが、この世界谷地周辺の伐採も深刻だ。揚石山北面はすっかり切られてしまい、世界谷地の歩道から10メートル程度まで迫っている。普通に歩いていては気がつかないようなので、図11には1976年の空中写真をもとにした伐採状況もあわせて記入しておいた。

上遠野秀宣が見た世界谷地は、現在の景観とはやや違っていたかもしれない。

8.栗駒の湿原について

湿原が発達するためには一定の水湿条件が必要で、その景観はそれぞれの湿原の時間的または空間的な区分によって異なる。栗駒の湿原について、それぞれの要素がどのように作用しているかを以下にまとめてみる。

8.1 湿原と泥炭地

森林に対していう草原の水湿の状態は、全くの水から乾燥状態まで連続的に存在する。ある水湿条件では森林植物の成育がさまたげられ、貧栄養性の条件で成育可能な種に占められる。その状態を人間が認識して、ある景観をもった草原を湿原とよんでいる。通常、枯死した植物に含まれる炭素は微生物の活動などにより炭酸ガスなどに分解される。湿原では低温過湿などのために微生物の活動が阻害され、ある程度分解されたところで泥炭となって堆積する。この泥炭に着目した用語が泥炭地であり、湿原は泥炭地の植生に着目した用語ということが出来る。沢から湿原にはい上がるところには、水がしみだす独特の壁がある。ただし炭とはいっても赤褐色で、水で泥を落とすと植物繊維が残る。須川湖のそばの「泥炭地」では3メートル程露出した泥炭層を見ることができる。泥炭地は一般に酸性を示すので、さらに微生物の活動が抑えられ、成育できる植物が限られてくる。

8.2 湿原の時間的な区分

一般に湿原は、地下水面に対する表層的な関係から高層湿原、中間湿原、低層湿原という分類がなされる。低層湿原では水が地下水と地表水で涵養されるため、比較的富栄養性の植物が成育する。泥炭の堆積が進み、地表が地下水面より高くなるにしたがって、水は天水の占める割合が高くなる。貧栄養性のミズゴケ類を代表種とする植生となり、これが高層湿原である。中間湿原はこれらの発達過程をいう。いろいろなパターンがみられ、主体になる植物はヌマガヤである。これらは湿原の時間的な発達過程で分類されている。しかし、実際に私たちが湿原を歩いたときに地下水面を意識することはない。それぞれの代表的植物からヨシ湿原、ヌマガヤ湿原、ミズゴケ湿原などの区分のしかたがあり、景観上と一致していて都合がいい。

栗駒の湿原についてみるとほとんどがヌマガヤ優勢の中間湿原と思われる。ヌマガヤ湿原と呼んで大きな間違いはないだろう。小田代沢源頭付近の湿原や一ツ石沢支流の石滑沢小湿原はヨシ湿原といえる。ミズゴケによる泥炭の堆積が部分的にあるようだが、典型的なドーム状の高まりを持つ高層湿原はないようだ。それは降水量が多いことや、現在の湿原が最終過程に達するほど古くなく、湿原の成因が湖などの陸化型ではないことによる。また、世界谷地湿原の泥炭層では約 1,100年前の火山灰層が検出されるが、このような火山活動や土砂の流入による湿原の発達過程の逆転 (富栄養化) も考えられる。

8.3 湿原の空間的な区分

東北の多雪地帯にある山地の湿原は、一般的な湖の陸化型のものは少ないと言われる。むしろ融雪水や豊富な地下水が表土を飽和状態にすることで泥炭地の成立を可能にするらしい。図9~11に栗駒山の山稜に主な湿原の位置を記入してみた。それぞれに湿原が成立するための空間的な要因が何かあると思われる。

火山泥流堆積地の湿原
栗駒火山の溶岩流の下側に位置し、宮城県側の世界谷地や赤沢湿原、秋田県側の小田代沢源頭の湿原などがこれにあたる。基盤の北川石英安山岩をおおった火山泥流が不透水層をつくり、浅い凹地に水がたまりやすくなって出来たものだろう。秋田県側には田代小屋跡付近の田代沼と、まぎらわしいが道路標識で示す田代沼がある。いずれも 675~715 mの間にあり、栗駒の湿原ではもっとも標高が低い。

宮城県側はヌマガヤ湿原であるのに対し、秋田県側はヨシ湿原になっている。秋田県側は小田代沢源頭の湿原はそばを小田代沢が蛇行しながら流れているし、田代小屋湿原は中を小沢が流れている。地形図をみても比較的幅が狭い谷状に湿原があり、地形的な差が地下水位に影響しているのだろう。また、1976年撮影の空中写真を見ると周辺部の伐採が著しい。国道 398号線の周辺でもあり、宮城県側に較べて富栄養化が進んでいることも考えられる。

溶岩流末端の湿原
秣岳西北面の栗駒有料道路付近には、50~ 150mほどの顕著な急崖がある。これは秣岳から流れた溶岩流の末端で、このような所には後から押し寄せる溶岩のためにより平坦な斜面が出来やすい。ここには西方浄土と板井沢支流C930m湿原がある。東栗駒山北東のドゾウ沢湿原もこのような尾根の上にある。

源頭に発達した湿原
麝香熊沢湿原や小桧沢湿原、磐井川本流の裏沢湿原や旧道分岐小湿原などは他の湿原に較べてやや急な斜面にある。一般に傾斜湿原といわれるもので、地下水や融雪水などによる過湿な斜面に湿原が形成される。ただし、ある程度傾斜が緩くないと湿原にはならないようで、田代沢源頭や小桧沢源頭、磐井川左俣源頭などは湿性の草原のままである。新湯沢源頭の草原はまだ踏査していないが、登山道から見える池の周辺が湿原化していればこのなかに入れてよいだろう。

山稜の湿原
稜線上の斜面でも小ピークの鞍部などに小さな凹地ができる。溶岩流がベースになっていたり、シルト状の細粒火山灰層があったりするとそこに水が溜まりやすい。秣岳周辺では田代沢源頭の左岸にある田代沢湿原や山頂直下の鞍部にある秣湿原がある。また、笊森周辺では稜線上 C1045にある笊森湿原、一ツ石沢右岸の小湿原などがある。剣岳南側の龍泉ヶ原や隠れ龍泉ヶ原などもここに含めてよいと思う。

栗駒山に近い虎毛山にも湿原が点在し、ここでは山頂一帯や、春川本谷源頭の左岸の稜線上にある。冬期の気象条件が厳しいところにあり、秣岳周辺に似ている。このような低灌木しか成育できない所では蒸発散能力が低く、融雪水だけでも湿原が成立する。単に水が溜まりやすいだけでなく、森林が成立しない気象条件が湿原化を助けているのだろう。

地下水よる湿原
栗駒山頂の北西斜面下から北東方向に長さ約10km、幅2~3kmのU字型の火口原が形成されている。これは水蒸気爆発によって山体が吹き飛ばされて出来たものだ。その後の剣岳の火山活動によって南側に龍泉ヶ原の台地が出来た。

もともと複雑な地形を持つ火口原には、剣岳からの火山灰や火山泥流が堆積している。栗駒有料道路から仁郷沢を溯ると、途中で粘土質の側壁を見ることができる。この不透水層の上にできた窪みに地下水が湧きでて、仁郷沢源頭の湿原や須川湖周辺に湿原を成立させている。特に仁郷沢右俣湿原や西のかくれ谷地、ツンドラ湿原には明瞭な沢筋がないにもかかわらず、多量の湧水がある。

地滑り跡の湿原
地滑りによって急斜面に平坦地が生じ、同時に地下水脈が切断されてそこが湿原化することが考えられる。御沢源頭にあった湿原がその典型的な例なのだが、上部の崩壊によって埋まってしまったようだ。泥土が噴出して昭和湖できる前の地形図をみると、周囲を囲む急崖は同じで湿地記号が記載されている。地滑りによるものか噴火によるかは断定できないが、同じように地下水脈が切断されて湿原化したものだろう。

断定は出来ないが、一ツ石沢の石滑沢小湿原や隠れ龍泉ヶ原の西側の小仁郷沢上流湿原 (やまびと30号でF野会長が報告) がこの例と思われる。

8.4 湿原の成立時期

栗駒山の湿原については、宮城県が世界谷地湿原の学術調査を行い、その中でボーリングと花粉分析から成立年代を推定している。この報告 (『世界谷地湿原学術調査報告書』昭和63年3月宮城県) によれば、泥炭層は世界谷地層と古世界谷地層にわかれる。世界谷地層は2メートル以内で現在の湿原に続いており、約 4,500年前から泥炭の堆積がはじまった。いくつかの湿原では有機質粘土層をはさんで古世界谷地層の泥炭の堆積がある。その成立時期は第二世界谷地の一部で約10,000年前、最も古いもので約16,600年前とされるがその規模は小さい。

日本では泥炭地の本格的な形成は13,000年~11,000年前の最終氷期晩氷期に始まると考えられている。最終氷期の極相期には植物生産量は少なかっただろうという理由からである。そして、12,000年前から日本列島は大陸性気候から海洋性気候に転換する。 8,000年前には対馬暖流が本格的に日本海に流入し、日本海側の豪雪期がはじまる。現在の泥炭地の大部分は 5,000年~ 6,000年前から各地で一斉に形成され始めた。特に 2,500~ 3,000年前頃の寒冷期から形成作用は一段と促進されたとされる。

栗駒山に点在する湿原もこれらの範囲から大きくはずれることはない。古世界谷地層のような最終氷期中の湿原の形成があったとしても、その後の気候の激変によって一旦は消滅し、現在に続いている湿原化は 4,500年前以降に始まったのであろう。

8.5 湿原の微地形

湿原の微地形では池塘が代表的だ。栗駒山では、現在に続く湿原の成立時期が比較的新しいので、比較的初期の段階の池塘が見られる。池塘の成因にはいくつか考えられているが、それぞれのきっかけに結びつく状態があって面白い。

湛水シュレンケと池塘
湿原にはごく浅い水溜まりがあって、メモをとろうとすると池塘に含てもいいかどうか迷うことがある。小仁郷沢ハート池湿原の南側や赤沢湿原の半月形の水溜まりがそうだ。この成因は、融雪期で湿原の表面がビチャビチャしたときにできる水溜まりだろう。そこでは植物の成育が遅れるため、周囲との高低差が次第に大きくなってゆく。相対的な帯状の高まりがケルミで、凹部をシュレンケという。ある程度深くなって常に水が溜まっているものを湛水シュレンケという。皿状に水が溜まっていて、池塘のような垂直で明瞭な輪郭はまだない。

栗駒の湿原で見られる池塘の多くは、この湛水シュレンケがきっかけになっている。こういう池塘にはミツガシワやヌマハリイなどが生育している。深さは膝上を越えるものは少なく、皿状の平坦な底を持つ。池塘が密集している隠れ龍泉ヶ原では20cm程の深さしかない。底の泥をすくってみると、たしかに植物の繊維質が混じっている。栗駒山でこの種類の池塘で最も大きいと思われるものは、三途の川支流の硫黄ヶ原にある。

指紋状パターン
小仁郷沢支流の瞳ヶ原や隠れ龍泉ヶ原、野鳥の森のだんだん谷地などは、他の池塘を持つ湿原に較べてもその数が非常に多い。このような景観は、湿原がある程度の傾斜をもっているときにできるらしい。特に瞳ヶ原では南西側の傾斜した部分に集中している。帯の方向は等高線の方向に一致している。尾瀬ヶ原にはもっと規模の大きなものがあって、空中写真でみると指紋状に見えることから指紋状パターン (ケルミ・シュレンケ複合体) と呼ばれている。

この成因は、融雪時に流された枯れ草などが帯状に堆積し、わずかな水溜まりが成長するものとされている。だんだん谷地は全体に南北に傾斜しているが、下部にゆくほど池塘がはっきりしてくる。上部は数センチの窪みがあって、融雪期にはヌマガヤなどの芽吹きが遅れているのがわかる。

小火口にできた池塘
龍泉ヶ原の西端にある龍泉池は長径30メートル程の美しい池塘だ。周囲は垂直に落ち込んでかなり深そうだが、池の縁には土手状の高まりはない。このような池塘は湿原形成前にあった小火口の周囲に泥炭が堆積していったものと思われる。このほか、F野会長の報告 (やまびと30号) では剣岳山頂付近も小火口の池塘がある。『宮城縣名勝地誌』に記載されている剣沼が2号池塘か3号池塘かは確定できないが、それは深さが約10mもある。

池塘と呼べない沼
赤沢湿原や硫黄ヶ原、仁郷沢中俣湿原、磐井川支流の裏沢湿原には、湿原の周囲部に小さな沼がある。半分が湿原に接し、他はヤブに接している。ヤモリが泳いでいたりする暗い沼で、池塘とは言いがたい。小仁郷沢ハート池湿原のハート形の池も池塘ではなく、もともとあった沼のようだ。湿原が発達すればこのような沼も周囲がすっかり泥炭に囲まれて、池塘とよばれるようになるのかもしれない。

泥炭層の割れ目?
瞳ヶ原の北東側は比較的平坦だが、幅40cm長さ1メートル以内の小さな水溜まりが幾つかある。底には落ち葉が溜まって浅そうに見える。ためしに足で深さを測ろうとすると、膝まですっぽり入ってしまったので止めた。

湧水による池塘
野鳥の森の西のかくれ谷地の池塘はプールのような感じの透明感がある。池塘の水は泥炭から滲みでるためにやや黄色味がかった色をしているのが普通だ。このような池塘は湧水によってできるものだろう。国道をはさんで東側にある東のかくれ谷地では、南西側を囲む三日月状形の深い池塘がある。湿原中央のに浅い池塘が別にあることから、この半月形の池も湧水によるものと思われる。

仁郷沢右俣湿原では沢が湿原内を流れている。明瞭な沢筋がないので湧水と思うが、たいした水量でもないのに途中にかなり深く掘れた池を作っている。このような池も、流れが少し変われば独立した池塘となるのだろうか。

固定浮島
小仁郷沢の瞳ヶ原の北東端にある池塘やドゾウ沢湿原の池塘には小さな「島」がある。もちろん浅い池塘なので浮いてはいないが、少し離れて見ると浮いているように見える。シュレンケから池塘に発達する過程で取り残されたものか、植物の根の周辺が流されて出来たものだ。

西のかくれ谷地の大きな池塘にも「島」がいくつかある。こちらのほうは湧水の弱い流れがあるので、池塘の周囲が削られて残ったようだ。実際「半島」がまだある。東のかくれ谷地にも半島がある。ここの池塘はずっと深そうなので、半島の下側が削られて半分浮いた状態になっいる。いずれ本当の浮島になる可能性が強い。

8.6 再び「高層湿原」について

1993年10月に4人パーティで虎毛山の万滝沢を溯行し、万滝沢源頭部から春川本谷の源頭に抜けた。この尾根には地形図にもあるように四角い池と丸い池塘をもつ湿原がある。おそらく丸い池塘が湧水口になっているのだろうが、その周囲はミズゴケの成育が良く、やや盛りあがるほどだった。しかし、湿原の他の部分はヌマガヤが優勢だった。F野会長が「立派な高層湿原だ」と言ったとき、これまで得た断片的な知識からつい「これはヌマガヤ湿原でしょう」と言ってしまった。おかげてしばらく気まずい思いをした。

ではどのような湿原なら高層湿原と呼べるのだろうか?たぶん東北の山を歩いているだけでは答えはでないと思う。陸化型の最終過程で、ドーム状の高まりを持つ典型的な高層湿原の例は外国の調査がほとんどだからだ。降水だけで涵養される高層湿原の成立には、ミズゴケの保水能力が大きな役割を持っている。栗駒の湿原をみてもミズゴケの成育が活発なところが多い。例えば、東かくれ谷地やツンドラ湿原、石滑沢小湿原などではスポンジ状のミズゴケが見事だ。しかし、そのミズゴケが貧栄養性の種類か、またそのミズゴケによる泥炭の堆積が行われているかなどは専門的な調査が行われるまでわからない。例えば、上高地の田代湿原はミズゴケ群落をもつが、その区分は中間湿原とされる。もっとも栗駒山にあるような小さな湿原の調査は行われないだろうし、ボーリングの穴を開けてほしいとも思わない。

これまで湿原の区分や微地形などを栗駒の湿原に関連付けて述べてきた。しかし「高層湿原」についてはどうもすっきりしないまま残った。湿原について解説している本では、私たちになじみのある湿原を明確に高層湿原とは記載していないようなのだ。例えば、尾瀬ヶ原にしてもその成因は陸化型ではなく後背湿地から発達したブランケット状湿原で、かつて考えられた旧尾瀬ヶ原湖の存在は確認されていない。そして、植生が多様でモザイク状なために一言で高層湿原とは言い難いらしい。地下水面の位置についても、中間湿原と高層湿原のはっきりした境界は示されていない。日本で最大の高位泥炭地 (高層湿原) はサロベツ泥炭地らしいが、私はまだ見ていない。つまり、典型的な高層湿原の景観をイメージすることが出来ないもどかしさが残ってしまった。

結局、ヨーロッパ等の陸化型湿原の発達過程のモデルである高層/中間/低層という湿原の区分で、海洋性気候の山地に成立する湿原を表そうとすることが適切でないのだろう。「高層湿原」という用語は尾瀬ヶ原などの山上の湿原景観として登山者の間に定着してしまった。どうやら私たちの持っている湿原のイメージは一般的な高層湿原でないことは確かなようだ。代表的な中間湿原の植生をさす「ヌマガヤ湿原」の景観が高層湿原のそれより劣るとは思えないが、むしろ西丸震哉氏が呼ぶように「寒帯湿原」とした方がすっきりするように思う。

9.おわりに

1989年のはじめに栗駒山の地域踏査が決まったころ、もっとスケールの大きな山に行きたいと思いながら実質的にメンバーがいなかった。会山行で栗駒の麝香熊沢にはいったのは、そんな漠然とした不満をもっていた頃だった。蛇行を繰り返すヤブっぽい支流をたどり源頭部の湿原にでた。ヨシが多い地味な湿原だったが、バサバサとヤブをかき分ける音から解放されて別世界に来たようだった。その帰り「熊騒動」のあった御駒ヶ岳のから初めて龍泉ヶ原を見た。龍泉池を中心とした池塘が点在する予想外に大きな原が印象的だった。翌週、硫黄ヶ原から龍泉ヶ原、隠れ龍泉ヶ原へと歩いてみた。一人でヤブに囲まれた湿原に立っているのはなんだか不思議な気分で、それまでの木道から見たイメージとは違っていた。その翌週、衝動的に尾瀬北部の沢に入ったのもこの延長だった。

ここでは栗駒の主な湿原と池沼をとりあげたが、そこには尾瀬や裏岩手、八甲田のような派手さはない。そのかわり、自分が拒絶されているような冷たさもない。山域との関わりの深さだけでもなさそうだ。湿原から見える山稜は穏やかで明るい緑に包まれているし、背景にブナ主体の森を持つ湿原は栗駒以外であまり見たことがない。

今回は栗駒山特集のために「山屋からみた湿原踏査」として書いた。湿原の踏査はほとんど済んでいたが、まとめるためはある程度湿原の知識を仕入れる必要がある。参考にした資料はあまり多くないが、湿原はさまざまな要素から成立していることを知らされた。そのために、1993年はいままで漠然と歩いてた湿原を再確認する山行を行った。

湿原が直観的に神秘性を持つのは、当然あるはずの森林やヤブが欠落した空間にあるためだが、湿原の発達とそれを維持するメカニズムからは自然界のある種の生命体を直観することも出来る。栗駒山の要素を個々に独立したものとして一つを破壊すれば、ある種の生命を奪い、他の要素まで簡単に瓦解するという直観にも通じる。自然保護の出発点はこのような認識なのだろうか。

(1994.1/24)

【参考資料】

(1) 辻井達一『湿原』中公新書839 中央公論社 昭和62年
(2) 阪口 豊『尾瀬ヶ原の自然史』中公新書928 中央公論社 1989年
(3) 阪口 豊『泥炭地の地学』 東京大学出版会 1974年
(4) 宮城豊彦『世界谷地湿原の地形及び地質』 (世界谷地湿原学術調査報告書 P1-19) 昭和60年
(5) 日本自然保護協会東北支部編『自然の栗駒-生物-』宮城県栗駒開発連絡協議会 昭和42年
(6) 西丸震哉『山だ原始人だ幽霊だ』 経済往来社 昭和52年
(7) 西丸震哉『山とお化けと自然界』中公文庫 ニ66 中央公論社 1990年
(8) 亀山 章『上高地の植物』 信濃毎日新聞社 昭和60年

『やまびと33号』掲載


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