30年代、開放と健康@オランダ⇒フランス

ツイッターの秋吉くんのコメントでいいきっかけをもらったので、最近考えたことを少し書いてみたい。(尚、ぼくはモダニズム建築の専門家でも研究者でもなんでもないので、以下はただの調べ物である。)

一昨年の秋、パリに旅行した。
その日、この旅の目的の一つだったピエール・シャローのガラスの家の見学ツアーの集合時間に間に合わず、ぼくは焦っていた。グーグルマップ片手に集合場所の近くまで来ていることは分かっていたのだが、どうもそれらしい場所はないし、あの名建築が近くにありそうな雰囲気も感じられなかった。事前のメールには遅刻厳禁と書いてあったし、なによりツアー主催者に直前に無理やりねじ込んでもらっての参加だったから合流できないと申し訳ない。あたふたしていると、ある建物の扉が開いているのが目に留まり、覗くと奥の広場にそれらしい集団の姿が見えた。
ようやく到着したぼくたちを見て主催者は呆れた顔で文句を言っていたが、こちらはガラスの家がこんなわかりにくいところに建っているなんて知らなかったのだから勘弁してほしい。そもそも、そちらが通りに立って待っているべきではないか。

パリの石づくりの街並みの内側の空白に、ガラスの家は建っていた。ダルザス邸ともメゾンデヴェールとも呼ばれるこの建築は、1932年の竣工とは思えないほど綺麗だった。このツアーの主催者はどこかの研究者らしく、かなり細かくこの住宅の来歴を話してくれた。(英語が早口でほぼわからなかったのだが。)彼がそのとき提示した写真のコピーの中に、知っている建築作品が2つあった。ひとつはJダウカーのサナトリウム、もう一つはコルビュジエのアトリエ兼住居。曰く、ピエール・シャローのガラスの家は、前者から影響を受け、後者に影響を与えた、と。その時は聞き流したが、その後ふとした時に思い起こし、いまだにこの3つの建築の関係が気になっている。

ガラスの家を訪れる1週間ほど前、アムステルダムにいた。Jダウカーのオープンエアスクールを見るのが目的だった。(ダウカーは、書籍によってダッカ—やダーカーなどの表記をされているのを見たことがあるが、後述の参照元と揃えてダウカーと書く。)
周辺はタイル張りの低層住宅街である。その中に一区画だけモダンな門構えが表れる。街路に面する管理棟である。そこをくぐるとぽっかりと、この学校の校庭がある。そのほぼ中央に建つのが有名な教室棟。名前の通り、すっからかんとした建築である。

画像1

(撮影:筆者)

周囲から切り離された空地にスタンドアローンで建っているのがいい。街並みのグリッドから45度振った平面形状もさらに独立性を与えている印象だった。白い塗装のRC躯体の太さがとても目立っていて、対照的にサッシは細く存在感はない。
個人的にはかなり好きだが、専門家の言葉を引用すると、

山縣:ダウカーは圧倒的にまず架構ありきですね。その明快な架構を導き出しているロジックは、まずそれぞれのビルディングタイプが求める空間を考え、その空間を生み出す最も合理的な架構を見つけている。ところが私の印象は、その構造体が武骨というか、カッコ悪いですね。…
八束:部材をもっと細くできないのかなという気はした。台風も地震もないのにって。…ただその分やりたい骨格ははっきりしている。(KB200108「モダニズム史観の更新を迫るダッチ・モダニズムの実像」八束はじめ、矢代真己、山縣洋)

格好良い悪いはここでは置くとして、空間を架構によって生もうというのがダウカーの方向らしい。そうであるならば、外壁にはなるべく透明性をもたせようとするのも納得感がある。

当時、オランダモダニズムの中心人物はH.P.ベルラーヘだったが、その彼がF.L.ライトを賞賛したことを受け、続く世代であるダウカーも自身の作品にライトの強い影響を示していく。

B.ベイフゥトとパートナーシップを組んだヨハネス・ダウカーはデルフト大学での指導者、H.エヴェルスから「建築の新時代」の到来を懇々と説かれる。最初期にはベルラーヘ/アムステルダム派寄りのイメージが見られるが、すぐにF.L.ライトからの顕著な影響にとって換わられる。しかし彼の光、空気、衛生を首位に考えるアプローチは、ガラスと鉄、そしてコンクリートの建物へと急速に変貌を遂げる。(KB200108「過渡期の意識化」大島哲蔵)

B.ベイフゥトはダウカーのデルフト工科大時代の同級生であり、1917年ごろから1925年ごろまでパートナーだった人物である。ダウカーの作品には、1930年ごろまで「ベイフゥト&ダウカー」と連名で発表されていたそうだ。そして、上述した「光、空気、衛生を首位に考えるアプローチ」が名作ゾンネストラール・サナトリウムを生む。

1923年から‘26年にかけて、彼らは鉄筋コンクリートの建造システム(T型梁を使う)を特許出願する。そして代表作になったゾンネストラールがくるが、そこにケネス・フランプトンはB.フラーのダイマキシオン精神の反響を嗅ぎ取っている。
(同上)

ゾンネストラール・サナトリウムの設計から竣工までの期間は1926-31頃とされているようで、ベイフゥトとのパートナーシップは解消された後らしい。しかしその直前まで架構の開発を協働していたというならば、設計思想を同じくしていたと想像したい。

このサナトリウムは残念ながらぼくは見学できなかった。しかしメディアに発表された情報で推測する限り、オープンエアスクールに対する印象と近そうだと思う。T型梁を使った架構システムと、存在感が希薄なサッシワークがここでも共通している。低層ながら単純ではない架構の構成のようで、いろいろな場所ができていそうである。機会をつくってぜひ行ってみたい。(余談だが、この時期に協働した技術者がもう一人いる。J.G.ヴィーベンハである。この人はファン・ネレのフルフトやダウカーといろいろな仕事をしているらしいが、また今度調べることにする。)

さて、先ほど登場したB.ベイフゥトは、ダウカーとのパートナーシップを解消したあと、パリに活動の場所を移す。そこでピエール・シャローと協働してつくるのが冒頭のガラスの家であった。アイリーングレイは、この建築の本当の意味での設計者はベイフゥトであると言っていたようだ。(Wikipediaによる。ちなみにシャローとベイフゥトは1927年ごろから共に働いており、ゴルフクラブや住宅計画の記録が残っている。ガラスの家は1928-32。)ここで、二川由夫のコメントを引くと、

建築設計の専門家ではなかったシャローは、この住宅の建設においてオランダ人建築家ベルナール・ビジヴォ(=B.ベイフゥトのこと)と協働している。この住宅が「デザイナー」シャローによって「建築」として成立し、さらに「名作建築」に仕立て上げられたことは、この建築家との協働が理由ではなく、特殊な与件とその解決のための建設方法に依るところが大きい。(世界現代住宅全集13  ピエール・シャロー ガラスの家 二川由夫)

この特殊な与件について教科書的に少しだけ触れておく。施主のダルザス博士(産婦人科医)がこの地で購入したのは18世紀に建った組積造3階建ての屋敷だった。当初この屋敷を更地にする予定だったが、3階に住む賃借人が立ち退きを拒否したことから、既存建物の改築に方針が転換される。しかしながら両側面の壁は隣家と共有壁のため更新不可、正面外壁についても既存建屋の外形ラインを保守し表面的な操作のみ許されるという条件だったらしい。そこで3階の住人のスペースを残し1-2階部分を除去、新たに挿入された鉄骨の柱梁によって組積造の3階を支える構図が選択された。これにより外皮は建物荷重から解放され、ガラスブロックの外壁が生まれたのだ。

これらの経緯から、結果的には18世紀的な組積造の空間が20世紀的な架構によって地面から切り離され、モダンな透明被膜で空間が覆われるという新旧の対比の物語が持ち込まれることになった。


さて、実際に訪れてみて驚いたことが何点かある。

一つはこのガラスの家の奥に、豊かな緑地があったことだ。周囲の街路からは想像できない(というか把握できない)スケールであった。そちら側のファサードも全面ガラスだから、室内から十分に緑を見ることができる。

二つ目は外部投光機である。昔からこの住宅の正面に設置さてれいるはしご状の架構が謎だった。現地で見ると巨大な舞台照明のような設備がぶら下がっている。聞けば、室内用の照明なのだという。これは予想外だった。部屋を明るくするために壁を全面透明にし、外から光を当てるのだ。実際の効果のほどは分からない。しかし自然光と同様に、人工照明もガラスブロックによって柔らかく透過されるのは、診療所という用途にも合致した演出のような気がする。

画像2

(撮影:筆者)

三つ目は開閉装置である。ガラスブロックは当然空気を通さないため、開閉機構をもった開口部が別に設置される。問題はその装置の大がかりさである。武骨なハンドルとむき出しの歯車で構成されたそれは、インテリアに異様な存在感を示していた。新鮮空気の取入れが用途上比重を大きく占めた結果でもあると思う。先の二川さんの紹介文の中で、この住宅の鉄骨を「マシンエイジの機械が放っていたヒロイックな雄姿」と評する下りがあるが、この開閉機構も相当マシンエイジなヒロイックさを放っていた。(似たような存在感をアアルトのパイミオのサナトリウムでも見た。こちらについては改めてまとめたい。)

画像5

(出典:世界現代住宅全集13 ピエール・シャロー ガラスの家)

当然、当時パリにはコルビュジエがいた。(コルとシャローはCIAMのメンバー。)彼はB.ベイフゥトの才能も認めて賞賛したらしい。(Wikipediaによる。)ピエール・シャローツアーの主催者によれば、コルはガラスの家を見て、自分のアトリエ兼住居にガラスブロックを使ったのだという。本当だろうか。

コルビュジエの作品集を眺めると、当然だがいろんな窓が登場する。ガラスブロックも多用している。たまたま、コルのガラスブロックが初めて使われたのは1930年のシャンゼリゼ通りの屋上のアパルトマンだという記事を見つけたが(建築家ル・コルビュジエの建築制作における「窓」への感性 2014 千代 章一郎)、手元の資料では、屋上のアパルトマンでは部分的な使用しか確認できず。むしろその直後のジュネーブの共同住宅での住戸外壁等への採用や、パリ大学スイス館の階段室外壁への採用の方が目に留まった。いずれも1930年代初期であり、シャローのガラスの家が時期的にわずかに先行しているようだ。(ちなみに、スイス館の混構造やサッシ回りの処理などは非常に興味深い。また調べてみたい。)

さて、件のアトリエ兼住居だが、1933年の作品と記録されている。こちらに訪れたときの印象では、石張りのアパートの街並みにありながら、ガラスのファサードは思ったよりもなじんでいた。(これは、通りを挟んだ反対側の街区がパリにしては異質な巨大スタジアムだったことにも影響されているとも思う。)

コルビュジエ全集に掲載されている最終案のパースをみると、周囲の街並みは多少の石の割付け目地と街区の立面を構成する頂部のラインだけ描かれている。あたかも長大な石の壁に透明なガラスの壁が挿入されたような表現と読めるが、実際には周囲のアパートもそれなりの開口がありバルコニー等の要素が外観を構成しているし、コルのアパートもこれらと一緒に都市の立面にしっかり参加しているような佇まいであった。

画像3

(出典:ル・コルビュジエ&ピエール・ジャンヌレ全作品集1929-1934)

もちろん、竣工当時の様子が今と同じとは限らない。少し調べてみたが、1930年代当時の街並みを示した資料は見つけられなかった。また、全集に掲載された外観写真は両隣のアパートの外装は写りこまないように編集されている。(これでは白黒写真では周囲との差異を明確に打ち出せなかったための措置ではないかと勘繰ってしまう。ちなみに、この写真にわずかに移りこんだ隣家の外装の切替え等の細部から判断するに今と大きく変わっていないと予想する。)

画像4

(出典:ル・コルビュジエ&ピエール・ジャンヌレ全作品集1929-1934)


この本に掲載された解説文をみると、

第4回アテネでの現代建築の国際会議でル・コルビュジエは、都市計画の要素は、空、樹木、鋼とセメントであって、この順序で重要度も同様だと宣言した。この条件を充たした分類になっている都市の住民は、彼の〈根源的な歓び〉と称するものを保てるとした。この共同住宅はその証拠に役立つ。
(ル・コルビュジエ&ピエール・ジャンヌレ全作品集1929-1934)

ここでいわれる空や樹木の優先度は、前述したダウカーの「光、空気、衛生を首位に考えるアプローチ」とも符合しそうだ。同時期の著作プレシジョン(1930)には、窓は採光のためにあり換気のためではない、との記述があるようだが、採光や換気や眺望といった開口部における機能を各要素にあてはめ、この外壁を構成したことが想像される。シャローのガラスの家のように全面ガラスブロックにならなかったのは、街路空間を構築する都市建築として、立面の分節や異なる要素の組み合わせを試みたからだろうと思う。


まとめてみる。

Jダウカー、ピエール・シャロー、コルビュジエの各作品の特に外皮の印象を(B.ベイフゥトを頼りに)つなげて考えてみた。

ダウカーにおいては、まず先に架構の構成があり、そこに存在感の希薄な外皮が取り付けられている。記述が漏れたが、開閉機構もそこまで目立つものはなく、羽目殺し窓と開閉窓の見た目の印象の違いはほとんど無いように感じられた。

この時代にダウカーと協働したベイフゥトはパリに渡り、新しい外壁の実践に成功する。シャローとともに作ったそれは、新しい時代の(マシンエイジの)採光と換気の方式が形象化したものに見える。

このダウカーのオープンエアスクールとシャローのガラスの家は、都市との接続の点で少し似ていると思う。それは周囲の街並みから一歩奥に入った空隙の中で目いっぱい外壁を開放するという特徴である。それは裏を返せば、街路空間を構成する建物における開放性の獲得の困難さを示しているようにも思える。

その課題を一歩すすめたのがコルビュジエのアパートと考えるとどうか。メディアへの発表形式はともあれ、複数の透明材を組み合わせた外壁は、周囲の街並みとなじみ、内部空間側からの開放性と、都市空間側からの形態的な要請をうまく調停しているようにも見えた。


ここに書き留めた建物たちは、学校、サナトリウム、病院、そして都市住居という別々の用途の作品たちである。しかし外皮をめぐって、一つのテーマの広がりが見られると思いたい。それは内部空間の開放性=内外空間の相互貫入の問題と都市居住者の健康についての問題を密接に関係づけたモダニズムの有り様ではないかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?