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吉村昭の四つの芥川賞候補作品について

 吉村昭といえば『戦艦武蔵』や『関東大震災』などの記録文学者として評価されている重鎮であるが、1966年に『星への旅』で太宰治賞を獲って世に出た頃は既に39歳で、それまでに4回も芥川賞の候補に推されたものの、授賞までに至らず、それまでの顛末が『私の文学漂流』(ちくま文庫 2009年)に結構詳細に書かれており、これから作家になろうと思っている人にはとても参考になると思う。

 ここでは話題を絞って「鉄橋」(第40回)「貝殻」(第41回)「透明標本」(第46回)「石の微笑」(第47回)の芥川賞候補になった4作品を改めて読んでみようと思う。

 最初に『鉄橋』に関する部分を引用してみる。

 『鉄橋』は、「文学者」(同人誌)の合評会で不評であっただけではなく、「文學界」の同人雑誌評でも、わずか数行で否定的な評がされているだけで、他の新聞や雑誌の同人雑誌評でも黙殺されていた。(p.98)

  その後何故か芥川賞候補になり、当時の編集長だった田川博一に勧められて加筆、削除が施された『鉄橋』は受賞に到らなかった。選評を引用してみる。

 選評をみると、瀧井孝作たきいこうさく氏が「この人の作は初めて読んだが、技芸アート特味など、よいと思った。このアートの有る新人は珍しい方だ。『鉄橋』は読後何かよい味が残った。が、三ヵ所ほど描き足りない所があって、また、筋を作りすぎた無理も見えた」と記していた。
 また、丹羽文雄氏は、「十篇の候補作品の中で、私には『鉄橋』がいちばん素直に頭にのこった。が、これはあんまり面白いことが並べられている。それが欠点である。例えば、外人に日本の少女が犯されそうになる挿話そうわは、要らない。挿話の積み重ねといった印象をあたえる。」と評していた。
 これ以外の選者の評は、否定か無視であった。(p.113-p.114)

 丹羽文雄の「外人に日本の少女が犯されそうになる挿話は、要らない」という意見には反論したくなってしまう。何故ならば主人公で東洋フライ級チャンピオンである北尾与一郎は色素の薄い小さな瞳をした赤い毛髪の男がナイフを手にして襲いかかってきても身をかわして倒したことで身につけた自信の過剰さが最終的に自身の身を滅ぼしたはずだからである。

「貝殻」は「早稲田文学」の編集長だった岩本常雄氏に依頼され、昭和34年3月号に掲載された短編小説である。

 『貝殻』は、手術を受けた直後のことを書いた私小説だが、その頃の心境を素直に書けたのかもしれないが、いかにも弱々しく、候補作に値するものとは思っていなかった。それだけに候補作にえらばれたことが意外で、またも受賞には縁がない、と考えたのだ。(p.126)

 「貝殻」に関しての記述はこれだけしかない。何故これほどテンションが低いのか勘案するならば、吉村は既に主人公と弟とさよという同じ登場人物で「さよと僕たち」という短編小説を書いて、同人誌「Z」(昭和32年3月号)に発表しており、どうも吉村は「貝殻」よりも「さよと僕たち」の方が出来が良いと考えているようで、「さよと僕たち」は文庫本に収録されているが、「貝殻」は文庫本に収録されておらず、図書館で『少女架刑』(三笠書房 1971.6.15)でも借りなければ読めない状況である。
 ところが実際に読み比べてみるならば、「さよと僕たち」が大衆性を意識した書き方であるのに対して「貝殻」はいかにも純文学という感じで書かれているだけで「貝殻」が失敗作とは思えないのであるが、この時点で吉村の素質はエンタメ小説の方に向いていたのであろう。

『透明標本』は「文學界」の編集部員に渡したものの没になった後、「文学者」(昭和36年)九月号に掲載された。

 合評会では、
「骨のことばかりにこだわらないで、もう少し視野をひろげて……」
 という批評が多く、雑誌の同人雑誌評でも無視された。(p.146)

 あらかじめ言っておくならば「骨のことばかりにこだわらないで」という発言は決して皮肉ではなく、前回の候補作だった「貝殻」の冒頭「白々とした骨の堆積が、深い海の底に果てしなくひろがっている。」という文章で始まる主人公の圭一が見る悪夢が本当に骨だらけで、そこを指摘されているのである。
 ところでこれまた何故か芥川賞候補になり、有名な「事件」が起こった。文藝春秋社からすぐに社に来いという電話を貰った吉村は次兄の車に乗せてもらって急いで行ったら間違いだった言われたのである。

 事実、やがて発刊された「文藝春秋」にのせられた芥川賞の選評で、佐藤(春夫)氏は、私の作品を強く推していて、「僕は会場に臨む前から『透明標本』と決めていた。神経の行きとどいた明快な文体とこの特異な取材との必然性を見て、これをホンモノと思い、少々都合のよすぎる筋立てもあるとは思いながらも層々として盛り上り進捗しんちょくするのもよく、独自の世界を創作し得て一頭地を抜く作」とし、賞を逸したことについて「作者のためには気の毒、賞のためには残念だが是非もない。幸に作者の自重を祈り大成を待つ」と、記されていた。
 丹羽氏も推してくれてはいたが、各委員の選評を読むと、瀧井孝作氏は私の作品を「読みながら気味のわるいイヤな感じがした」と評し、各委員の評価も宇能(鴻一郎)うのこういちろう氏の方が高く、氏の授賞は当然の成行きであるのを知った。
 『透明標本』は、初めて新聞の文芸時評にとりあげられ、河上徹太郎氏からかなり好意のある批評をうけ、つづいて、翌月、「文學界」に発表された『石の微笑』も、氏がほめてくれた。(p.154-p.155)

 吉村の短編で比較的人気の高い「少女架刑」が「幽霊譚」であるならば、「透明標本」は「マッドサイエンティスト」の物語で、もはや芥川賞の対象作品として相応しくなかったというべきであろう。

 「石の微笑」は「透明標本」が芥川賞候補作品に選ばれたという通知と一緒についでに文藝春秋社に依頼されて「文學界」4月号に掲載された。

『石の微笑』も受賞に縁がなく、川村晃氏の『美談の出発』が受賞作となった。
「文藝春秋」の芥川賞の選評によると、舟橋聖一氏と高見順氏が私の作品を推していたが、ことに高見氏は、私の作品が「目さきの変った作品に横合いからいつも賞をさらわれて行く感じはいたましい」と、記していた。(p.155)

 「石の微笑」は図書館で新潮文庫の『星への旅』か『透明標本』(學藝書林 1990.3.25)を借りなければ読めないのだが、個人的にはこれは素晴らしい作品だと思う。主人公で大学生の北岡英一と不妊症を原因に離縁された姉の佐知子が一緒に暮らす家に間借りしに来た英一の友人の曽根久寿夫の微妙な関係がスリリングに描かれているのだが、詳細は避けるが、ラストの駅の自動販売機を目の前にした英一のこじらせた思いが見事としか言いようがない。

 結局、吉村は筑摩書房が刊行していた「展望」(昭和41年8月号)に掲載された「星への旅」で第二回太宰治賞を受賞するのだが、太宰治賞を受賞したからといって「星への旅」が吉村の短編小説の代表作だと思われると個人的に複雑な思いを抱いてしまうのは、悪い作品ではないものの「星への旅」は若者の集団自殺の顛末を描いたものだからである。一般的な物語であるならば、集団自殺をしようとしたもののやっぱり止めて生きる選択をするという希望が描かれるものだが、主人公で予備校生の光岡圭一は画塾に通っていた三宅、美容学校に通っていた槙子、予備校に通っていた有川、定時制高校に通っていた望月と共に一本のロープを腰に巻いて崖から飛び降りるというガチの集団自殺で、その上ラストは「これが、死というものなのか」という圭一の感嘆で終わっており、決して小説にまで道徳やモラルを押し付けるつもりはないものの完全な「ドン引き話」だから「星への旅」から読み始めた読者は吉村の他の短編を敬遠してしまう可能性が大きいと思うのである。
 さらに同年に吉村は『新潮』に『戦艦武蔵』が掲載されたことで記録文学の方に軸を移してしまい、吉村に短篇小説のイメージがなくなってしまったのである。

 以上で吉村昭の四つの芥川賞候補作を概観してきたが、不便なことにこの四作品は一冊の文庫本で読める状態になっておらず、二作品は文庫本にさえ収録されていない。しかし例えば『島田雅彦芥川賞落選作全集』のようにまとめたいと思っても、一冊の本にするにはちょっと長さが足りないような感じで難しいのである。

 とにかく吉村の短編小説はクオリティが高くリーダブルであるにも関わらず、上記したように色々と扱いが難しく現在に至っている。