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二冊の『作家の値うち』と『アメリカの夜』

 二冊の『作家の値うち』を読み比べてみると面白いもので、大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』のように同じような評価をしている作品もあれば、評価が真っ二つに分かれている作品もある。そのような作品の中から阿部和重のデビュー作である『アメリカの夜』(1994年)を取り上げてみようと思う。

 福田和也は79点(現代の小説では事実上満点)をつけて以下のように記している。

 処女作。話者と主人公の分裂を通じて、小説の自己言及構造を明るみに出すという方法論と、青年の成熟のドラマが見事に重ねられている。書き出しが素晴らしい。(p.128)

 ところが小川榮太郎は22点(公刊するべきではないレベル)をつけて以下のように記している。

 「自己」なるものの不確定性に言及し続ける。脱私小説的な私小説。しかし、文体も幼く、自意識への絶えざる言及も鋭さがなく退屈。この種の自己遡及そきゅうや思弁は文章が凡庸では何の意味もなさない。ブルース・リー、『ドン・キホーテ』『神聖喜劇』などへの言及がちりばめられながら、徐々に素人映画の撮影を巡るB級青春小説へと変貌するが、ほとんど自慰じい。(p.174)

 「説明文の文体であって、小説の文体を獲得できていない」とも言っており、けちょんけちょんである。

 いくつか気になる点を整理しておきたい。「書き出しが素晴らしい。」と福田和也が指摘している書き出しを書き出してみたい(2001年の講談社文庫版から)。

 ブルース・リーが武道家として示した態度は、「武道」への批判であった。(p.7)

 ウィキペディアに拠るならば、本作の作品冒頭は柄谷行人の評論『探究Ⅰ』のパロディーらしい。冒頭を講談社学術文庫から引用してみる。

 ウィトゲンシュタインは、言葉に関して「教える」という視点から考察しようとした。(p.7)

 福田和也の意図がそういうことなのかどうかよく分からないのだが、こうして比べてみてもよく分からない。

 本題に入りたいと思う。できるだけ簡潔に書いてみる。

 ブルース・リーは自ら作り出した武道を理論化=体系化を目論むものの、「絶えず変化する現実」の中で行なわれる実践において「型」は有効性を欠くという内容で明らかに自家撞着してしまい、リーの早世もあって膨大なメモやイラストだけが残されたのであるが、簡単にリーの考えを要約するならば、「絶えず変化する現実」とは「日常性」であり、「型」=形式化によってはみだしてしまうもののことである。

 主人公の中山唯生は三年制の映画専門学校を卒業後は、映画学校の同期生の武藤に勧められて都内S区(渋谷区)にあるSホール(シード・ホール)という多目的文化催事施設でアルバイトをして二年半が経つのだが、今は「映画のひと」というよりも「読書のひと」である。

 その後、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』を引用しながら「中山唯生という名のもとにこれまで語られてきた男とは、私自身なのである」(p.36)と「種明かし」される。

 中山唯生の誕生日である9月23日は昼夜の長さがほぼ等しい「秋分の日」であるが、「春分の日」と比べるならば「闇」が凌駕し始める「秋分の日」に生まれた自分は「俗なるもの」であると得心する。

 武藤が撮った30分足らずの短編映画に出演していたツユミがひたすら五人分のオムライスをつくり続ける緊張感に満ちたシーンに感動したことを武藤に伝えると、自分は演技指導などしないタイプだと言い、唯生とツユミで次の映画を撮ると提案してくる。

 『ドン・キホーテ』を読みだすと主人公のアロンソ・キハーノと彼が自らドン・キホーテという騎士を名乗ったことにちなんで、唯生は「私」を本名の重和にちなんでSと呼ぶ(Sとはフロイトの精神分析学における自我を暗示させていると思う)。『ドン・キホーテ』を読んでいるうちに、「気違い」になるのは不可能ではないかと思い至るものの、唯生はどうにかして「気違い」を演じてみたいと思う。

 ジャン=リュック・ゴダールの「あなたは稽古が十分ではない」という言葉に励まされ、小銭を札に変えろと要求してくる「ガキども」に屈辱を受けた唯生は役づくりを兼ねて格闘の修練や体力づくりを日課とする。

 クライマックスは映画の撮影現場である。監督の意図を無視して唯生は服を着たまま右半身を白に、左半身を黒に塗りわけて現場に向かうのだが、やはり武藤と言い争いになる。現場に戻って来ない石田と「ガキども」を探しに行った唯生は彼らが自動販売機を壊して小銭を盗んでいる場面に遭遇する。突然自動販売機の警報音が鳴ると真っ先に唯生が逃げ、石田たちが後を追うようなかっこうになる。撮影現場に戻るとちょうど(演技指導をされない)主役のツユミがキャメラの前で「演じている」。「虚構」に乱入しようとする「現実」に抵抗しようとした唯生の描写を引用してみるが、もはや何をもって「虚構」とし、何をもって「現実」とするのかはよく分からなくなってくる。

 なにやってんだ! 中山、やめろよ、おい、やめろよ! 死んじゃうよ……
 武藤が呼びかけ、喜代三が泣き叫んでいた。抵抗もできぬまま殴り蹴られる男たちのポケットから、何枚かずつの小銭が宙へとびだして地面におち、じゃらじゃらという音ではなく、チャリンという響きのよい音をさせている。やめろよ、中山、死んじゃうよ、と武藤がいいつづけ、喜代三は、いやあ、という泣き声のような叫びをあげて唯生の身体をおさえようとしていたが、危険だといわれて雪ちゃんにとめられた。ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン、唯生の頭になかでそれらの音が渦巻き、辺りは音の世界へと変貌していた。ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン。(p.172)

 唯生がどのように行動しているのか描かれていないが、「音」によって何が起こっているのかは分かる。これは小川榮太郎が指摘する「説明文の文体」どころか「小説の文体」でさえなく、例えば『おそ松くん』のネームなどで見かける文体と言える。普段の「十分な稽古」のおかげで急場しのぎの文体には辛うじて偶然の産物の「型」のようなものも見受けられるものの、そもそも「型」から逸脱することが「絶えず変化する現実」なのではある。

 「昼」でありながら「夜」である日蝕は自然現象でしかないが、人間にも「昼」を「夜」に変えてしまう「アメリカの夜(La Nuit américaine)」という虚構の企てがある。二項対立が解消されるメカニズムが提示されるのである(その後眩惑ぎみの『日蝕』は売れに売れたが『アメリカの夜』がそれほど売れなかったのは日本の文学の不幸であろう)。

 何故『アメリカの夜』が芥川賞を獲らなかったのか今となっては不思議でならないくらいの傑作ではないだろうか? 「気違い」と書き過ぎたことで顰蹙を買ったのか?