『クワイエット・プレイス』における深層心理について
『クワイエット・プレイス(A Quiet Place)』(ジョン・クラシンスキー監督 2018年)は、そのストーリーの設定の甘さにもかかわらず大ヒットして、2021年には続編の『クワイエット・プレイス 破られた沈黙(A Quiet Place: Part II)』も大ヒットしたことで、今年はそのシリーズのスピンオフであるマイケル・サルノスキ監督による『クワイエット・プレイス:DAY 1(A Quiet Place: Day One)』が公開された。
例えば、映画評論家の前田有一は『どうしてそれではダメなのか。』(玄光社 2021.3.10)において『カメラを止めるな!』(上田慎一郎監督 2017年)と共に『クワイエット・プレイス』を「ちょっとしたダメさ」に魅力があるとして以下のように記している。
設定の甘さは『クワイエット・プレイス:DAY 1』でも踏襲されており、例えば、ラストにおいて次々と車のフロントガラスを割っていく主人公のサミラよりも猫を抱えながら走って行くエリックの足音に謎の生命体たちが反応しているのはやはり違和感を抱いてしまうのである。
しかしそもそも本シリーズにおける「静かな場所」とは何を意味しているのか勘案するならば、それは意外かもしれないが映画館そのものではないだろうか? 例えば、上映中にうかつにも自分の携帯電話が鳴ったとしよう。両隣か前後の「謎の生命体」に「襲われる」かもしれないが、「襲われない」かもしれない。上映中にうかつにも前の席を蹴ってしまった時、前の席に座っていた「謎の生命体」に「襲われる」かもしれないし、「襲われない」かもしれない。
つまり本シリーズの醍醐味は主人公の身に起こっている出来事が観賞している観客自身の身にも降りかかってくるかもしれないという深層心理を上手く掬い取っているところにあると思うのである。