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ナサニエル・ホーソーン『ファンショー』と孤高の倫理

 いまさら著者のナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)の実質のデビュー作『ファンショー(Fanshawe)』(1828年)を読もうと思った理由は、ポール・オースター(Paul Auster)の『鍵のかかった部屋(The Locked Room)』(1986年)の主人公の友人の名前がファンショーで、翻訳者の柴田元幸が訳者あとがきで、「もっとも『ファンショー』という小説自体は、作者のホーソーン自身のちにその未熟さを恥じ回収したというエピソードからもうかがえるように、ストーリーも散漫で作品としての統一感に欠ける。『ファンショー』と『鍵のかかった部屋』に限っていえば、オースターは自らの守護神をはるかに超えていると言っても、文学史に対する冒瀆にはなるまい。(p.230)」と書いていたので、どのようなものなのだろうと思って読んでみたのである。

 最初に思ったことは柴田が書いているように『ファンショー』は決して「ストーリーも散漫で作品としての統一感に欠ける」わけではない。それはホーソーンの『緋文字』(1850年)と比較するからそのように感じるわけであり、普通の青春冒険小説として読むならば、読みやすくとても面白いと思った。

 ホーソーンとオースターの類似も興味深い。ホーソーンが自費で『ファンショー』を匿名出版したようにオースターもポール・ベンジャミンという筆名で『スクイズプレイ(Squeeze Play)』(1976年)という推理小説を出版している。オースターはそのことも踏まえてファンショーという名の人物を造詣したように思う。

 実はホーソーンの『ファンショー』のファンショーは厳密に言えば主人公ではない。主人公はニュー・イングランドのある州にあるハーレー大学の学生のエドワード・ウォルコットと、メルモス博士の家に居候している18歳のエレン・ラングトンを中心にストーリーは展開し、ファンショーは自室にこもりがちの、エドワードの友人で、エドワードを介してエレンとも関わることになる。

 しかしタイトルにもなっているように「おいしいところ」はファンショーが担っている。誰も読んでいないはずなので、ネタバレで話を進めるが、エレンは騙されてバトラーという輩に誘拐されるのであるが、最終的にはファンショーに助けられるものの、正確を期するならばファンショーはエレンたちの後を追っていただけで、バトラーが「自滅」したから救えたのである。

 ここで通常ならばファンショーがエレンと結ばれるという展開になりそうなものだが、ファンショーは変わり者で、助けてもらったお礼のようなものを一切求めずに勉学一筋のような生活に戻ると、ちょうど20歳になった頃に亡くなり、その四年後にエレンはエドワードと結婚し、人並み以上の幸福な人生を送る。

 このように見ていくとポール・オースターの『鍵のかかった部屋』の主人公はまるで『ファンショー』のファンショーの「倫理」を追求するかのように友人のファンショーを追っているように見えるのである。