見出し画像

小林信彦『ドリーム・ハウス』と安部公房『砂の女』

 小説家としての小林信彦の評価はいまだに定まっていないようで、ウィキペディアを見る限り、芥川賞や直木賞などの主要な文学賞にはことごとく嫌われている感じではある。

 ところで小林信彦の『ドリーム・ハウス』は1992年10月に上梓され、新潮文庫でも出版されたのだが、何故本書を読もうと思ったのかと言えば、解説で評論家の浅羽通明が「この小説は傑作である。(p.241)」と書いていたので、そこまで書くならば読んでみようと思った次第である。

 簡単に粗筋を記しておくならば、主人公は小林本人を想起させるバツイチの「作家」で、新宿と渋谷から私鉄で十分くらいの乗り換え駅の近くの2LDKのマンションに住んでいるものの、警察に職業を訊かれても認識されない知名度である。去年の夏にパチンコ屋で知り合った瀬里奈という恋人がおり、中学生の同級生で今は映画評論家を生業としているDDという友人がいる。
 主人公の母親は近所の駅から電車で三十分以上かかる町の丘にある家に住んでいたのだが、まもなくして連絡が途絶え、ベッドの上で亡くなっている母親を主人公が発見する。
 そこで主人公は母親の住んでいた家を改築して瀬里奈と一緒に住むという話になっていくのであるが、DDには「彼女を戸籍に入れるな」と忠告される。
 しかし築三十年の家を改築した新居は集中豪雨で地盤が崩れてしまったり、主人公自身が体調を崩したりと次々問題が発生するのであるが、小説のラストを引用してみる。

 あの土地と家がごく自然に瀬里奈のものになるとしたら、どうだろう? 土さえ上げてしまえば、問題はおこらないはずだから、確実に彼女のものになるように、公正証書に基づく遺書を作ればよいではないか。
 悪い考えではなかった。家を建てるために人間性が変ったと批難された男にふさわしいプレゼントのように思えた。ついでに、遺書のどこかに、ぼくが死んでも、葬儀も、ドライアイスとレーザー光線の〈野辺送り〉もいらない、と書いておけばよい。(p.228)

 このラストは安部公房の『砂の女』(1962年出版)のラストを思い出させる。主人公の仁木順平は昆虫採集で訪れた砂丘の村で、蟻地獄に似たような家に見知らぬ女と共に閉じ込められ、脱出を試みるものの、ことごとく失敗するのだが、小説のラストを引用してみる。

 べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
 逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。(p.266)

 『砂の女』の主人公は当初は強制された外的環境に順応しているのに対して、『ドリーム・ハウス』の主人公は内面の諦念という違いはあるものの、最後は女性に屈してしまうのであるが、これは小説を書いた時の作家の年齢も大いに関係しているように思う。当時38歳だった安部の主人公は盛んな血気を奪われたような感じなのだが、当時59歳だった小林の主人公は明らかに老いによる弱気によるものだと思うのである。