51キリスト教概論

51窪寺洋子「キリスト教概論」2004年清泉女学院短期大学国際コミュニケーション科

テキスト武本民子「小さな証」ボンソンファの会

先ず始めに、論者は当講義を受けておらず、ただ書き込みされたテキストを譲り受けたに過ぎない点をお断りしておきたい。論者はただ講師がこのテキストを選択した点から、宗教とは何か、問題はどこにあるとされているか、を俯瞰したいだけである。
さいわい講師は講義中受講生に対し本文に傍線を引くよう指導された。今となっては講師の講義を再現は出来ないが、論者なりにテキストを追うことで講義の意味を再確認したいと思うのである。

先ずテキストの目次を確認したい。

「礼拝感話の部」
一  初めての礼拝
二  心と心を繋ぐもの
三  核時代に生きるを読んで
四  クリスマスに何を捧げますか
五  ある韓国人被爆者との出会い 注1
六  手話に関わって
七  責任について 注2
八  赦しについて 注3
九  人間の大地を読んで 注4
一〇 ボンヘッハー家の運命を読んで 注5
一一 罪なき者の血を流すなかれを読んで
十二 死の谷をすぎてを読んで
十三 私にとってのイエス
十四 母との別れ
十五 夜夜明け昼の夜を読んで
十六 なぜ韓国語に行くのか
十七 パウルシュナイダーの殉教を読んで
十八 マルチンメーニラーを読んで
十九 苦難の意味
二〇 復活について
二一 歌集天の梯子によせて
二二 アウシュヴィッツを訪ねて
二三 涙の意味
二四 ボンヘッファーの信仰と実践
二五 ダミアン神父と自己犠牲
二六 学ぶことの意味
二七 正の遺産、負の遺産
二八 励ましの言葉
二九 伊東柱の詩によせて
三〇 皆さんに願うこと
三一 唯一神について

「歴史と証言の部」
広島修学旅行中止事件
 ヒロシマの体験
 揺らぎ始めた平和教育
 「広島への旅」中止に抗議
 軍拡の時代に消されたヒロシマ
 第十七回クエーカー世界大会最終事務会における私の発言
 この頃思うこと

戦争責任を心に刻む自主研修の旅
一 アウシュヴィッツへの旅
二 韓国への旅
三 東南アジアへの旅
四 中国への旅

ボンソンファの会
一 「核の子どもたち」の頒布にあたって
二 韓国教会女性聯合会の活動

原発について
一 原発を考える

次に講師が注目された傍線部を抜き出す。
注1 P56
自分より一歩遅れている人がいたら手を差し伸べることができるという、神様から与えられた貴重な能力を、自然に生かすことが奉仕なのではないかと思います。

注2 P71
ここでいう責任とは、社会の職務や、役割分担の出来る責任ではありません。私達が生まれた時から、神から与えられている責任のことです。歴史上の一人として生まれてきた以上、逃れられない責任です。それは一人一人がいつも自分の良心を研ぎ澄ませていないと見失ってしまう、一人一人の良心で判断する責任です。

注3 P75
自分の比較にならない程の大きな罪をゆるされたことが本当にわかった時、私達は初めて人の罪をもゆるせるようになります。神は私たちをゆるすことによって私たちに他人をもゆるす力を与えられているのです。人をどれだけゆるせるかということは自分が神をどれだけ受け入れているかという尺度になります。問題は自分が神に負債があることをどれだけ意識しているかということです。神に対する私達の負債というのは何でしょうか。自分が毎日神から沢山のことを要求されているのにそれに何一つ応えていないのではないかということに気がつきました。

注4 P85
被爆者がその人達を捨てて逃げた時、人間性を失ったように、世界中に飢餓で苦しんでいる人達がいることを、知って知らぬふりをしたり、知ろうとしなかったら、その私達もまた、人間性、人間らしさを失った人間になり果てることに気が付きました。被爆者の方は、自分の生命を守るために仕方なかったと、許されるかも知れませんが、私達には、自分の非人間化を正当化する理由が、何一つありません。
(略)
この青年や犬養さん自身の生き方は、私自身が見失いかけていた人間性を回復するために、人間らしさを取り戻すために、とにかく他との関わり合いを求め、支え合う生き方のある可能性を示してくれています。自分が生まれてきたことを最大限に生かす道は開かれ、それを選ぶ自由も、私達には開かれているのです。

注5 P97
彼は(注ディトリッヒ・ボンヘッファー)、自分をあえて非暴力に徹し切れない罪人の座に引きずりおろし、罪人として死ぬ道を選んだのです。
(略)
彼が現実の問題から目をそらさないで、自分の中に生じた矛盾をごまかしたり正当化したりしないで、人間としての限界を正直に認め、罪人として死を選んだこと、そして、そうした生き方を支えたのは、確かにキリストの十字架の信仰であり、神が共に苦しんでくださるという信仰なくしてはありえなかったということに、心からおそれおののくような気持ちがしています。

以上から、テキストで扱われる「死」とは哲学的死ではなく、「社会構造」とは文学的社会構造ではない事が知られる。哲学の自我同一性、自他意識、自然主義的誤謬や、文学の善悪、美醜、良心を問題とはしていない。この前提のもと、テキスト内において、

「死」
P117
生や死を自分の問題として取り組むこと
生きる意味を問い続けること

「社会構造」
P33
私達の心が、大切なもので一致している

「信仰(愛)」
P47
神が何を自分に期待するか
他人の苦しみを自分のこととすること
P215
自己を解放してくれるもの、自分の生き方に意味を与えてくれるもの

と、哲学や文学とは異なる概念としての死や社会構造を示し、また、一般的でない術語として「信仰」を示されている。神からの期待を最大に果たすことが「人間らしさ」である、といわれれば信仰とは特別なこととは思われない。ややもすると宗教といえば超現実性に傾くきらいがあるが、テキストでは「自分らしさ」という我執から飛躍した「人間らしさ」すなわち調和的自我を信仰とし、日常的位相として考察している。遠い救済を信仰する時、神とは超自然的で奇跡的存在である。しかし、神と人間の境界や範疇をテキストは明示しない。むしろ「信仰」をずばり「解放、意味付け」としている点から、ここでは実存的生を意識した人生を主題としている事が分かる。これが本テキストが採用された理由ではなかろうか。もし哲学者であれば死を主題とするであろうし、文学者であれば良心の美を主題とするであろう。

講師自身は、
正義のために戦う神ーアモス書におけるmishpatsedaqahの一考察ー

モーセ五書にみられる「貧しい人」を保護する義務
ルカ文書における“πνεύμα” ー聖書神学的一考察ー

といった論文を書いているので、宗教論争(キリスト、三位一体、唯一神、聖書など)を専攻されていたように伺える。
この専門から、テキスト内における奉仕、責任、負債、罪に注目し講義された事が知られよう。講師がテキストで注目された傍線部分というのは、他者や神との関係や距離感を著した部分に集中し、逆に著者の伝記的部分や歴史的体験は除外され、更にイエスや苦難も避けている。

以上から、テキストを通読した上で扱われている題は「死」「社会構造」「信仰」であることが知られ、加えて講師が特に注目するよう指導された部分は、神からの「負債」に応えるのが人間の「責任」であり、それが人間らしさとする点にあり、つまり人生観を講義していたであろう事が知られる。
もし、人間が具体的に道具や言葉を使用し、抽象的に宗教を考えたのであれば、宗教から芸術、政治、哲学、自然科学などが次第にアイソレーションしてきた歴史は想像に難くない。すなわち対神、対人、対自然である。一方、講師が注目したのは対人、すなわち日常的位相にある社会構造といえよう。個人的様相、いうなればゆるい宗教としたい。逆にかたい宗教とは、社会的様相、神や霊を論点とする。

このゆるい宗教、すなわちクリスマスを祝い、神前式に結婚式を行い、仏教徒として葬儀をする私達にとって解りにくい点は、原罪ではなかろうか。悪魔の誘惑を選択した人間の罪を日頃から意識する困難は、哲学者の生きにくさに相似するだろう。
講師はこの困難をどのように受講生に教授しようと意図されたのだろうか。もう一度傍線部に戻り確認されたい。

注1「奉仕」

注2「一人一人の良心」

注3「問題は自分が神に負債があることをどれだけ意識しているかということです」

注4「知って知らぬふりをしたり、知ろうとしなかったら、その私達もまた、人間性、人間らしさを失った人間になり果てることに気が付きました」

注5「自分の中に生じた矛盾をごまかしたり正当化したりしないで、人間としての限界を正直に認め、罪人として死を選んだこと、」

傍線部に共通するのは知ろうとする態度、論者は文学者なので能動的参加と言い換えるが、つまり罪を意識するという難題を、知ろうとする態度と、講師は換言したかったように観えるのだが。

以上