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断片:「ただしさに殺されないために」を巡る諸々

まあ、この記事を読んでくれるような人はすでに物理/電子書籍を購入しているか、逆にそもそも読む気が無い方でしょうから、リンクまでは貼りません。各自で検索してください(笑)。

御田寺圭「ただしさに殺されないために」の書評を色々と読んでいて気になった共通点があります。ポジティブな意見にしろ、ネガティブというか批判的な意見にしろ共通するのは「処方箋が無い」という意見なんですよね。口さがない人だと「言いっ放し」とか書いていたりしますが、根本的な点で考え違いをしているのではないか、と感じています。恋の病はお医者様でも草津の湯でも直せない、と俗に言いますがそれは「恋の病は人それぞれで決定的な処方箋になり得るものが無い」からなんですよ。まあ、心構えくらいは言えるかもしれませんが、それをどう受け止め自分事として取り扱うかの責任は個々人に任されている。この本に求められる「処方箋」もまた同じようなものだと考えます。

この本で取り上げられている諸々の問題はどこかにいる邪悪が引き起こしている問題ではなく、私達自身の選択が原因となっているものです。たしかにその一つには「どこかにいる邪悪を倒そうとする人々」が引き起こしているかもしれませんが、彼らがそのような行動を取るのはそれが望ましいことと私達が了解するからに他ならない。「悪を倒せ」と仮面ライダーストロンガーを呼ぶのは天でも地でもなく人なんですよ。誰もが義を望み悪を退けたいと望む、その事自体が様々な問題を引き起こしている。本気で処方箋を示してしまえばそれは「社会の総員が北斗の拳のヒャッハー(雑魚悪)になるしかない」という実に破滅的なものにならざるを得ない。それでいいんでしょうかね(笑)。

著者に、あるいは他者に処方箋を求める姿勢は、それぞれの問題について我が事として認識していない、ということでもあります。まあ「この本に書かれている諸々の「問題」とされる話は現実には存在しない」と考えるのであれば確かに処方箋は必要ないのでしょう。しかし批判的な意見を述べている人も「問題無し」とは言っていないんですよね(苦笑)。「それより深刻な問題がある」がせいぜいで。それはその通りだと考えます。ですから、「より深刻な問題」を憂いている人はそちらに注力されるとよろしいかと。誰をかわいそうランキング上位者とみなすかは個々人の自由ですから。神様でもない我々には万民を平等に救うことはできませんし。

厳しい言い方をしてしまうと御田寺圭氏が疎外された人々に対して「祈る」ことをしているのはそれしかできないからだとも言えます。本を書いてそれを世に知らしめ、誰かに彼らの救いを託す、氏にできることはそれだけなんでしょう。言葉を変えると、ボールは私達の手に委ねられているわけです。「処方箋が無い」と批判する人達に欠けている視点はこれなんでしょうね。「御田寺圭ごときに何ができる。俺が、俺達が彼らを救う!」と叫ぶことこそが氏に対する最大の批判になるのではないか、と考えます。そうでないとあまりに救いが無さ過ぎる...

どうでしょうね。宗教家でも無い人達に「苦しむ者すべてを救え」とはとても言えませんが、あなたの側にいる人、視界に映る人、「この差や区別はおかしい」と考えられる人に手を差し伸べる、それは誰にでも可能なことなんじゃないですかね。多くの人には二本の両腕があるわけです。そのどちらかを他者と繋ぐために伸ばす、預ける、繋げる、それをあなたが為していくこと。それが処方箋なのではないか、と考えますが、他にもっと良い手段があるのでしょうか。あるなら教えていただきたいと思います...

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