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やがては消えゆく廃星ならば、いっそのこと仄かに発火し、消えろ。

「もしも時間が道ならば、それは傾斜や、犬の足のごとく急な角や、
         でこぼこの起伏に満ちた、スパゲッティのごときもの」
               (Ciaran Carson ”Ambition” より私訳)

1. 僕のこの恥じらいと、破壊性と。

書き手の意識がそうさせるのか、
それともnoteというフォーマットに文字が載るとたちまちそう見えるのか、
「note語」ってありません?

前略プロフィールに始まり、Facebook、twitter、Instagram、そんでnote。
僕は、こうしたSNSの類に対して尽く傍観者であり続けてきた。
そしてそのいずれにおいても、独自の言語があるように感じてきた。

なんかありません?感じません?
それぞれのSNSに対応した「それっぽい」言語。

そんで思ってきたんです。「恥ずかしい」と。
いやいいんです、他の方が書いているのは。
でも自分が書くとなると…。
NHK紅白出場を「恥ずかしいから」といって断ったという井上陽水にも、
わかるわあ〜と勝手な解釈で共感を覚えまくっている。

そんで、ほら、こうしていま綴る言葉も、
うっかり「note語」っぽくなっている気がする。
(いま文章をのっけて気づいた、こいつぁフォント・間の仕業かも知れない)

いやだねえ、纏いたくないねえ。
あーいやだいやだ。ぼくぁ「note」なんて纏わねえ。

いっそこんな言語なんて壊れてしまえ。
いっそこんな言語なんて壊してしまいたい。
いっそ一切合切すべての言語よ、壊れてしまえ。

……はっ。失礼いたしました。
僕のダークサイドがおいたを致しまして、お目汚し失礼。ご気分悪くされた方いましたら申し訳ない。でも一度こういうの書いてみたかったんだ、お許しを。だって皆、こういう破壊性を帯びた部分ってあるでしょ?

 故郷を危機に陥らせ、父母の仇でもある九尾の妖狐を内に秘め、その強大な破壊力と凶悪性を自らのうちに抱える『NARUTO』の主人公のように。(のち九尾と和解、良きコンビに)
 正義を目指したものの色々上手くいかずに闇落ち、そして破壊に目覚めたルーク=スカイウォーカーあらためベイダー卿のように。(のちオモテ面へ帰還) 
 強くなりてえと厳しいトレーニングをするあまり、しくじって破壊性の化身のごときスカルグレイモンに進化してしまったグレイモンのように。(デジモン好きだったなあ)
 天下無双を目指し、やがて「なぜ斬るのか?強さとは?殺しと美しさが一体となった、この剣とは?」という深刻な問いに直面する『バガボンド』の宮本武蔵のように。(清十郎が推し。)
 数々の女性を組み敷き、腕力にものを言わせて経済的に成り上がった実父。その暴力性が自身のうちにも宿ることに薄々気づき怯えながら、自分は違うのだと土方仕事に精を出す中上健次・紀州三部作の主人公のように。
 あとは先週、松重豊がラジオで言っていた。東宝三代怪獣の一角・九州生まれのラドンが、自分が普段乗っている電車等を破壊していく姿が、幼心にとっても「愉快」だったって。(この名バイプレイヤーは福岡出身)
 あとはジブリの『ものの(以下省略)
 あとは手塚治虫の『鉄わn(いい加減しつこいぞお主自重せい)

 あげたらキリがない。破壊性は普遍的だ。ひとつ残らず、この世のあらゆる事物のうちに内蔵されている、真実の一つだ。あなたも僕も、何人たりとも逃れられない性質のひとつだ。観念しましょう。


2. 瓦礫、亡者、つまりは残像。

 さて、その<破壊的性格>について、ヴァルター・ベンヤミンはこのように書いている。

破壊的性格は、歴史的な人間という自覚をもっている。歴史的な人間の基本的心情は、事物の成りゆきにたいするやみがたい不信であって、いつでも、何もかもだめになるかもしれぬ、ということに周到に入念な注意を払っている。したがって破壊的性格には、ほかの誰よりも信頼がおける
(ヴァルター・ベンヤミン,「破壊的性格」,1994年, 野村修編訳,『暴力批判論』所収, p.244)

 いやあ、やってんなあ。やってんなあコイツ。おめぇさんはよく分かってらぁ、一緒に飲もうや。と肩を組みたくなるような文章。そうそう、そうなのよ。やがては全てぶっ壊れ、消えて無くなる運命なのよ。そんでもって歴史なんて、そのぶっ壊れたものの集積で成り立っているようなものでしょう。いつだって何もかも駄目になりうるし、なんなら自分が駄目にしてしまうかもしれない。ぶっ壊してしまうかもしれない。最終的に残るものは?瓦礫である。瓦礫の山である。瓦礫一択、瓦礫しか勝たん。

 そしてその瓦礫こそ、すばるくんのいう「残像」そのものであると信じる。
それは歴史である、死者である。亡霊である。それら亡霊に取り憑かれて、今日の僕らがあり、その欲動がある。そんな僕らは、残像の重ね合わせ。残像のスクラップブック。残像のモザイク画。

 その瓦礫たる残像を愛する君、そして同じくそれを愛するであろう仲間たちに、深い親愛の情をここに表明しよう。<歴史的な人間>たる君たちとこそ、僕は生きたい。

 おっと危ない。うっかり浅はかな綺麗事で終わりかけた。書きたいことはまだまだ止まりません。今しばらくお付き合いを。

 そんでもってベンヤミンは、次の段落でこうも書いている。

「破壊的性格は、何ものをも持続的と見ない。しかし、それゆえにこそかれには、いたるところに道が見える。(…)だが、いたるところに道が見えるので、いたるところで道の邪魔物を片付けねばならぬ、ということにもなる。といっても、粗暴な力を振るうとは限らず、ときには洗練された力を用いる。また、いたるところに道が見えるので、かれ自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるのか、分からない。既成のものをかれは瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ。」(同上, p.244)

 何もかもがぶっ壊れ、見渡す限りの瓦礫。死屍累々。空間を満たすスクラップを、球状にスクラップして進むスカラベたちの姿が見えらあ。愛し愛され、傷つけ傷つき、絶望し、ほぼほぼ哀しい辛苦の道程だけども、そうこの道こそが、<破壊的性格>ないしは<歴史的な人間>の目的なのだ。すべては壊れゆく、しかしそれは道を見つけるため、歩むため。残酷かつ美しい逆説だ。この逆説に、破壊性を内蔵する人間たち、すべからく救済されるべし。

 しかしまあ「つねに岐路に立っている」とは、よく言ってくれたものだ。本当にいつも、どの道にいけば分かりゃしないよ。ガチで行く先々「邪魔物」ばかりだしねえ。いい加減疲れたなあとも思うけど、岡本太郎も「本当に生きようとしたらいつだってお先真っ暗だ。それが本当に生きるということだ」的なこと言ってくれちゃってるし、やめられないんだなあ。下手に励まされるのも困りものでございやして。いい迷惑だと思うこともしばしば。

はっ、失礼。うっかりボヤキが止まらない。いかんいかん。


3. 神、あるいは権力者の視座へ

 さてさて、ベンヤミンさんの瓦礫的テクスト空間に続きまして、ミシェル・ド・セルトーさんの都市的テクスト空間へとご案内しましょう。「道」やら「歩行」にまつわった文章となっております。あ、早速ですが見てください!あちらに、今はなき世界貿易センタービルがご覧になれます。この地上の瓦礫を離れ、セルトーさんと110階へと上がってみましょう。

「世界貿易センターの最上階にはこばれること、それは都市を支配する高みへとはこばれることだ。街中にあれば、匿名の掟の命ずるがまま、こちらの角を曲がったり、またあちらの角を曲がったりせねばならぬものを、もはや身体はそんな街路にしばりつけられていない。すさまじい差異のざわめき、ニューヨークのけたたましい車の洪水、そこで遊ぶ者、遊ばれる者、いずれもいまはその呪縛から解き放たれている。この高みに登る者は、大衆からぬけだすのだ。作者だろうと見物人だろうと、あらゆるアイデンティティをごたまぜに呑みつくしてしまうあの大衆から。」(ミシェル・ド・セルトー, 2021年,『日常的実践のポイエティーク』,山田登世子訳, ちくま学芸文庫,  pp.233-234)

 皆様、おめでとう御座います。見事、眼下に広がる迷路の如き瓦礫空間から脱出することに成功いたしました。こちら貿易センタービル最上階、もう色んな道に迷わなくて済みますし、スクラップをスクラップする必要もございません。理解不能な他者との出会いもありません。すべてはあなたの思いのままに。道はひとつでございます。どうぞ楽にお過ごしください。……おやセルトーさん、まだなにか仰りたいようですね?

「こうして空に飛翔するとき、ひとは見る者へと変貌するのだ。下界を一望するはるかな高みに座すのである。この飛翔によって、ひとを魔法にかけ、「呪縛」していた世界は、眼下にひろがるテクストに変わってしまう。こうしてひとは世界を読みうる者、太陽の≪眼≫、神のまなざしの持ち主となる。視に淫し、想に耽ける欲動の昂揚。おのれが、世界を見るこの一点にのみ在るということ、まさにそれが知の虚構なのである。」(同上, P.234 )

 …セルトーさんなるほど、あなたは、こうした高みに座すことをディスっておられるのですね。早まりまして失礼いたしました。この高みへと飛翔することは、違いがありすぎて煩わしい「他者」との繋がりから脱出し、自らの存在を悪戯に肯定し続けられる<神>の存在に成り上がることを意味していますね。仮初めの全能感…そんな理想郷は、まさしく<虚構>ですね。自らに取り憑くはずの、数多の残像の囁きも聞こえず、迷わずに済むのでしょうが…。この高みにいらっしゃりたい方も、沢山いるでしょうね。

 でも違うんですよね?我々スカラベたるものは降りるんですよね?ね?はああああ…面倒くさいなあ…。はっ、セルトーさん、いまご自身でも「ここからまたもあの薄暗く模糊とした空間に降りていかねばならないのか」(同上, p.234)と仰いましたね!いやなんすかその顔!確かに聞きましたよ!……はい?まだなにか?

「一一〇階にある一枚の張り紙は、スフィンクスさながら、ひととき見者と化した歩行者に謎をかける。「ひとたび昇ると降りるのはつらい」、と。」
                         (同上, p.234)

 そうですか。それでも我々、降りるんですよね。あの瓦礫空間に。こうして登って、見下ろしてから。あ、ご準備なされましたね。行くんですねやっぱり、降りるんですねやっぱり。いやもう、大変にマゾヒスティックな……。えー、オホン!はいでは、スカラベの皆さん、行きますよー。もう一度地上へと帰りましょう。あの瓦礫の集積した空間へ。


4. そして燃ゆるは<詩の小径>

「(……)神をよそに、都市の日常的な営みは、「下のほう」(down)、可視性がそこでとだえてしまうところから始まる。こうした日々の営みの基本形態、それは歩く者たち(Wandersmänner)であり、かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書きつづっている都市という「テクスト」の活字の太さ細さに沿って動いてゆく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである。」(同上, p.236)

 僕らスカラベが身を置く瓦礫の空間は、あの塔の高みにいた時と打って変わって、もう全く、遠くが見えない世界。数歩先が見えれば良いほうで、一歩を踏み出すのもおぼつかないほどの視界。自分たちがどこを歩いているのかなんて、知れやしない。私たちは視る者ではない、書き紡ぐ者だ。自分がなにを綴っているのかも分からないままに、ふんころふんころ、瓦礫の間を縫うようにして、拙いテキストを編み、<scribe>し続けるスカラベだ。

「その空間についてかれらが知っていることといえば、抱きあう恋人たちが相手のからだを見ようにも見えないのとおなじくらいに、ただひたすら盲目の知識があるのみだ。この絡みあいのなかでこたえ交わし通じあう道の数々、ひとつひとつの身体がほかのたくさんの身体の徴を刻みながら織りなしてゆく知られざる詩の数々は、およそ読みえないものである。」(同上, p.236)

 この世界の全体に対して、自分の知識や書き付けの正否なんぞ分かりゃしない。自分の相棒たる身体や言葉との関係は「密」そのものなんだから。近すぎてむしろ、タワーからじゃ「密」とも見てとれないほどの緊密な関係。だからこれは秘密の関係。そんな僕らが刻み行くのは、<詩の小径>。堆積する瓦礫を縫い合わせるようにして、その狭間をやっとの思いで歩んでいるんだ。予測不能かつ、振り返りも不能。自分にすらも不明瞭。タワーにお住まいの神々の皆さん、聞こえますかー。こちら地上。秘密であり続けるこの詩の道程を、どうぞ読めるものなら、お読みなさいな。

 我らスカラベが刻む無数の<詩の小径>の錯綜っぷりは、それはもう半端ない。皿いっぱいに広がるスパゲッティのごとく、度を越したタコ足配線のごとく、混迷極まる配線だ。そうしていよいよ、発火する。

 想像してみよう。暗がりのうちに広がる瓦礫の山々を。その狭間を、仄かに明るい無数の光線が走っている。スカラベ達が刻む小径の数々だ。近づいたり離れたり、時に絡まり結ばれて、かと思えば次の瞬間には解(ほど)けて散開。光るはスカラベが球状にスクラップした発火性テクスト群。瓦礫たちから、ちょっとずつちょっとずつ頂き物をして出来上がった、有機性廃棄物。やがては再び、瓦礫へと還るもの。残像になり果てるもの。この世の美と残酷を象るもの。

 スカラベたる者、なかなかどうして丸まってくれず、崩れた老廃物に腰掛けて、どうしたもんかねえと、お月さんを眺めて途方に暮れるのもまた一興。そんで遥かにそびえるタワーがあるのなら、その横っちょに東宝三大怪獣のお一人・ゴジラさんを幻視してみる。愚にもつかない産廃は、綺麗さっぱり瓦礫に還してもらいましょう。と、腰掛けに使うそれに、手(脚かな?)が触れる。まとまりを得ない詩の一塊、その粒子、それはきっと彗星の尾っぽ。その一握に亡霊達の歌を聴き、その一雫に、聴け、かまびすしい差異の賑わいを。

 ふんころふんころ、僕らの転がす球体は皆きっと、仄かに光って尾を引く流星だ。暗闇のなかをひとり彷徨う発光体。やがては消える、すぐ消える。けれどもきっと、それでいい。瓦礫へと還ろう。残像へと成り果てよう。

「ちいさな廃星、昔恒星が一つ来て、幽かに”御晩です”と語り初めて、消えた。」
         (吉増剛造, 2018年,『舞踏言語』所収, 論創社, p.49.)

途方もない、大火球が、
音もなく、ふっと、消える、この仕草に、
スカラベ達は、きっと、夢を見る。
やがては消えゆく、廃星ならば、
いっそのこと、仄かに、発火し、
さあ、消えてしまえ。


5.結びに

…はっ。うっかり感傷的に。うわあ。
では最後に、件のベンヤミンの文章の、最終段落をここに。

「破壊的性格が生きているのは、人生は生きるに値いする、という感情からではない。自殺の労をとるのはむだだ、という感情からである」
                 (ヴァルター・ベンヤミン, 既出, p.244)

 この破壊性。この肩透かし。この暗澹。ほっほっほ、愉快愉快。あー落ち着く。「暗澹は諧謔に通じる」とは、誰の言葉だったかなあ。

 あ、ご登場いただいたベンヤミンさん、セルトーさん、有難うございました。声をお借りした他の無数の方々も。おかげで、こんな可燃性球状テクストが編まれました。ここに燃やし、捧げます。


P.S.
暴力と破壊性は似て非なるものであることを、ここに記しておく。
いや本当は、似てすらもいないと、言いたい。
暴力とは、他者を捨象して、他者を監視し、他者を操作するためのタワーを建設せんとする力のことだ。
いまこの世界で発揮されるあらゆる暴力の一切合切、どうか怪獣さんにひっぱたいてもらうべし。

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