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読書録/神道はなぜ教えがないのか

「神道はなぜ教えがないのか」 島田裕巳 ベスト新書

丸山真男の「日本の思想」(岩波新書)によると、江戸時代に国学が盛んになり、本居宣長が、儒教や仏教が入ってくる以前の日本の固有の信仰を復元しようとしたものの、この「信仰」には人格神の形もなく、開祖も経典も何もない、ということを見出した、ということである。伊藤博文は明治憲法を制定するにあたって、欧米がキリスト教を機軸としているように、日本においても伝統的な宗教を機軸としようとしたが、日本の伝統的な宗教は、機軸として作用するような伝統を形成していない、と言い切り、「国体」と いうものを創り上げていったという。

ここでいう固有の信仰、伝統的な宗教というのは、神道のことだろう。というわけで、教えがないって本当なの? それはなぜ? 教えがないなら、何がどのように信仰されているの? ということに興味がわいてきて、この本を手に取ってみることにした。

確かに、神道には、開祖もいなければ教義もなく、今、神社にある拝殿さえも、もともとは「ない」ものだったらしい。筆者は、神道を「ない宗教」と位置づけ、 教えがない、神殿ももともとない、創造神もない、救済もない、姿かたちもない、と「ない」ものを挙げていく。その中で、教義や仏像、複雑な世界観などを 持った「ある宗教」としての仏教と習合することで、共存してきた、そして「ない」という特性のゆえに、「宗教ではなく習俗である」として明治憲法のもとで、国家の祭祀とされ、国家神道が廃された戦後も、「ない宗教」であるがゆえに、時代にあわせて受け入れられているという現実について、言及している。

「ない宗教」という視点は面白いのだが、しかし、タイトルにあった「なぜ」教えがないのか、の「なぜ」については、はっきりとした記述も分析もなく、単に「ない」で済まされてしまっているし、神殿が本来なかった、ということなども、確固とした歴史的な分析や調査結果があるのではなく、どうもそうらしい、という 推論にとどまっている。神道がイスラム教と似ている、という話もあったが、似ているといっても表面的なことで、本質を突き詰めて行けば、全然根っこは別のところへいくだろう。というわけで、ものすごく表層だけをさらっとなでて終わったような、浅い記述ですべてが終わってしまって、結局、じゃあみんななぜ神社に行って何を拝んでいるの? 教えがないのにどうして「信仰」しているといえるの? というようなことに対する筆者なりの答えを見出すことは出来なかっ た。

というわけで、表題や各章の見出しだけみれば面白そうに感じるが、いうほど中身がなく、読後感も物足りない、の一言につきる。ちゃんと、表題にふさわしい答えが欲しかったなあ。

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