読書録/聖書考古学 遺跡が語る史実
「聖書考古学 遺跡が語る史実」 長谷川修一 中公新書
聖書を批判的に読みつつ、 聖書に記述された歴史的な出来事について、遺跡の発掘調査によってそれが史実であるかどうかを検証しつつ、古代イスラエル史の全容を明らかにしていこうと するのが「聖書考古学」だそうである。これまでの調査研究から、旧約聖書の族長時代からイスラエル王国の統一と分裂、バビロン捕囚に至るまでの歴史が、考 古学的に見て本当に史実といえるのかどうかを、聖書の記述をひもときながら解説している。
筆者が冒頭で注意を促しているのように、その解説は、信 仰を持つ人にとっては「がっかり」するようなものである。例えば、族長時代。アブラハムという人物が歴史的に存在したのかどうか、裏付ける資料は全くない ことから、実在した人物とは考えられない、とか、族長時代にはラクダが使われているが、そもそも族長時代の紀元前17世紀から19世紀の遺跡を発掘して も、ラクダの骨は出てきていない、だから、これは後世に作られた「作り話」だろう、という結論に至る。
同じく、エジプトに奴隷として売られて大臣 にまでなったヨセフの物語についても、エジプトには文字に書き残された資料があるが、そこに何も出てこないから、実在したかどうか不明、モーセについても 同じで、200万人もの奴隷がエジプトを脱出したのに何の歴史資料も残っていないのはおかしい、だから、これは「作り話」だということになる。
考古学的には、聖書は「伝聞」を寄せ集めた編纂物なので「二次史料」としての価値しかない。時代が確定できる遺跡から発掘され、年号などが明らかな「一次史料」によって裏付けが得られなければ、史実であると確定することはできないのだ。
このように調査していくと、聖書の歴史的な記述で、「史実である」という確証が得られるのは、南北分裂後のイスラエル王国、ユダ王国の記述まで時代を下らなければならないという。
そ して、例えばヨシヤ王の時代に忘れ去られていた「律法の書」が発見され、ヨシヤ王は過越の祭を復活させたり、国内の異教の偶像を取り除くなどの宗教改革を 行うが、この記述については「発見した」ということにしておいて、じつはこの時代に「申命記」が成立したのだ(聖書の記述では、モーセが書いたものとされ ている)という解釈がなされている。
こうした「史実」はどう捉えるかはさておき、私が面白いと思ったのは、イスラエルの南北王朝の王につ いての筆者の見方である。聖書では、それぞれの王国の王は「悪い王」と「良い王」という評価をもって記されているが、筆者は、「悪い王」は領土拡大やシリ アとの同盟など国の安定や発展につくした「良い王」で、「良い王」は宗教改革などで自分の考えを押し付け周辺国家との関係を悪くした「悪い王」だという、 聖書とは逆の評価をしていることだ。つまり、価値観が違うのである。
筆者は本書の最後で、考古学について、青銅器や鉄器などの「物質」に よって歴史を見る「物質主義」で良いのか、という小さな疑問も投げかけている。このことを通してわかるのは、考古学から見る史実は、あくまで「物質主義」 によるものだ、ということだ。私自身は、本書を読んで多少もやもやしたものは残ったが、別にだからといって、聖書は「なんだ、作り話だったのか~」などと 思えるようなものではなく、その価値の重さは少しも変わらなかった。少しファンダメンタルな言い方をすれば、聖書は、他の何者かによってその正しさを証明 されなければならないような書物ではないし、別に史実をありのまま書き記しただけの無味乾燥な書物でもない。それはイエス・キリストを証しするため、そし て私たちに「真理(史実ではなく)」を告げるために書かれたものだからだ。史実かどうか、という見方は面白い一面もあるが、それは聖書の伝えようとする本 旨ではない。
改めて、そんなことを感じさせてくれた一冊となった。
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