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読書録/定本 日本の秘境

定本 日本の秘境 岡田喜秋 著 ヤマケイ文庫

 散歩の途中に寄ったツタヤで、何か面白そうな本はないかなと思って見ていたら、目に留まった一冊。旅行記のようだが初出は1960年で、取材されたのは1950年代である。今となっては、旅の情報としては古すぎるかもしれないが、60年を経た2014年に文庫本として初版されるくらいなので、長く読み継がれてきた、まさに「定本」なのだろう。そこに興味を引かれて、手に取ってみた。
 著者は日本交通公社で雑誌「旅」の編集者を務め、日本各地を取材して歩いいてきたという人。本書は当時の日本に「秘境ブーム」を巻き起こした、ということである。それまでの旅といえば、いわゆる名所旧跡や名勝などをめぐって、よく知られた景観を楽しむというものが一般的だった。そうではなく、誰も旅を目的に訪れることのない所へ行き、これまで目にしたことのない風景と出会う、またその風景をつくり出してきた自然環境や、そこで生きる人の営みに触れる、という旅をつくりだしたのが本書の紀行文だといえる。

 本書で取り上げられている「秘境」は青森県の酸ケ湯、十二湖、群馬県の苗場山、北海道の襟裳岬、御嶽山山麓の開田高原、室戸岬、足摺岬、佐田岬、隠岐島、宮崎県の椎葉など。今はリゾート地としてにぎわっている所もあれば、昔と変わらぬ秘境といえる場所もある。ただ、大きく異なっているのは、そこへたどり着くまでの交通だ。1950年代といえば、まだ新幹線も高速道路網もなく、著者は、目的の地へ行くまでにもかなりの時間を費やしている。船、鉄道、バスや乗り合いタクシー、そして最後は徒歩となる。
 最後が徒歩となること自体はそう珍しいことではないが、徒歩でしか行けないところに人が住んでいる、ということがむしろ驚きである。まさに当時は、それほどまでの秘境だったのだ。

 そして本書が書かれた時代は、電源を確保すべくダムが各地で建設され、高度成長期にさしかかって少しずつ豊かになり始めた人々が、新しく出来たダムを見物するために、秘境といわれる山奥の聚落にまで押し寄せるようになった頃である。著者は、ダム建設による電力確保でもたらされる都市の便利な生活のために、山村の人々が多額の補償金を得てこれまでの暮らしを放棄する様を嘆いている。捨てられてゆく村、開拓された村。戦争が終わってまだ10年ほどの、高度成長期にさしかかろうとする日本の、今はなき失われた姿を書き記したものとして、一つひとつの情景が価値あるものとなっている。

 その意味で、その当時の「今」が「歴史」となっていくプロセスに立ち会っている、そんな不思議な感覚におそわれる、とてもユニークな紀行文だった。紹介されている場所は、今では車で行くなら当時よりずっとたどり着きやすくなっている。しかし、皮肉なことに、高速道路網の整備はこうした地方に恩恵をもたらす以上に、地方から人々を離れさせてしまった。当時はあった鉄道のローカル線やバス路線の中には、廃線、廃止となったものも多いだろう。だからもし車ではなく公共交通機関を利用して行こうとすれば、今でも十分「秘境」かもしれない。

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